8月13日はJ-WAVEの日〜81.3MHzが東京にもたらした新しいラジオの形〜

アマチュア無線局 JF9OYU/ライセンスフリー無線局 いしかわJK946 です。いつもブログをお読みいただきまして、心より感謝申し上げます。

さて、本日8月13日は、数字に置き換えると「813」。東京のFMラジオ局、J-WAVEの周波数81.3MHzと重なることから、J-WAVE自身も8月13日を「J-WAVEの日」としています。

J-WAVEが本放送を始めたのは1988年10月1日です。2026年8月の時点では開局38年目を迎えており、同年10月1日には開局38周年となります。首都圏以外に住む私にとって、かつてのJ-WAVEは遠距離受信や出張、旅行の際に触れる東京の音でした。現在はradikoのエリアフリーやポッドキャストなどによって、地域を越えて番組を聴けるようになりましたが、81.3MHzという数字には今も地上波FM局としての存在感があります。

今回は、開局前の準備段階から、開局10年、20年、30年、そして現在までの歩みをたどります。J-POPという言葉、ナビゲーターという呼称、独特の選曲や番組の流れなど、J-WAVEが放送と音楽文化に残したものも振り返ります。あわせて、開局当初から聴いてきた人たちが、なぜ現在のJ-WAVEに物足りなさを感じることがあるのか、番組編成の変化から考えてみたいと思います。

東京に二つ目の民放FM局をつくる

1980年代後半、日本では民放FM局の開局が相次ぎました。東京では1970年に開局したFM東京、現在のTOKYO FMが長く唯一の民放FM局でしたが、広告、流通、音楽、ファッションが大きく動いたバブル景気の入り口で、東京にも新しいFM局を求める機運が高まります。

新局の設立には、西武百貨店、パルコ、西友、クレディセゾンなどを擁したセゾングループが深く関わりました。当時のセゾングループは、商品を売るだけでなく、広告、出版、映画、演劇、現代美術、音楽などを通じて新しい生活文化を提案していました。J-WAVEも、その文化戦略の延長線上に生まれた放送局と見ることができます。

準備段階では「FM24」という案もあったそうですが、セゾングループを率いた堤清二が「J-WAVE」という名称を示したと、創設準備に携わった林野宏が証言しています。六本木には当時、セゾングループ系の大型レコード店「WAVE」がありました。輸入盤やワールドミュージックを豊富に扱い、音楽好きにとっては新しい音に出会う場所でした。J-WAVEという局名には、日本を示すJと、電波や新しい潮流を想起させるWAVEが組み合わされています。

運営会社の株式会社エフエムジャパンは1987年12月10日に設立されました。1988年8月1日には81.3MHzで試験放送を開始し、開局までの約2か月間、音楽番組を中心とするサービス放送を行いました。この段階から、洋楽中心の選曲、英語を交えた進行、曲を長くつなぐ構成が試されており、正式開局を待たずに受信機を81.3MHzへ合わせる音楽ファンも増えていきました。

1988年10月1日午前5時、J-WAVE開局

1988年10月1日午前5時、東京タワーから周波数81.3MHz、出力10kWで本放送が始まりました。コールサインはJOAV-FM。東京都を放送対象地域とする民放FM局としては、FM東京に次ぐ2局目でした。本社とスタジオは港区西麻布の西麻布三井ビルに置かれていました。

第一声は、長くTBSラジオで活躍した遠藤泰子による日本語の開局アナウンスでした。それにジョン・カビラの英語によるステーションコールが続き、新しい放送局が東京の空に加わりました。

開局当初の基本姿勢は「More Music Less Talk」。言葉どおり、トークを抑え、音楽をできるだけ多く聴かせる編成です。番組ごとの色を強く出すより、局全体を一つの長い音楽空間として聴かせることが重視されました。番組と番組の間を細かく区切らず、曲、ジングル、ニュース、天気、交通情報を一つの流れとしてつないでいく。従来の日本のラジオとは明らかに異なる音づくりでした。

流れる曲の多くは洋楽で、英語による曲紹介やステーションジングルも多用されました。初めて聴いた人からは「音質の良いFENのようだ」という感想も聞かれたようです。FENは、現在のAFNにあたる在日米軍向け放送です。当時の日本のFM放送に慣れた耳には、それほど外国の放送局に近い印象があったのでしょう。

喫茶店、ブティック、書店、美容室、オフィス、自動車の中でJ-WAVEを流すこと自体が、新しい東京の生活様式となっていきました。番組を熱心に聴き込むというより、空間全体を整える音として一日中流しておく。J-WAVEはラジオ番組の聴き方だけでなく、店舗や職場におけるFM放送の使われ方も変えました。

開局当日の、少し意外な話

開局の瞬間に現場にいたジョン・カビラは、のちにJ-WAVEの第一声をその場で聞いていたと振り返っています。しかし、開局当日の午前5時から、現在知られているような勢いのある生放送を始めたわけではありません。

翌10月2日の日曜日に「TOKIO HOT 100」の第1回放送を担当したクリス・ペプラーは、長時間の生放送が初めてで、心臓が飛び出しそうなほど緊張していたと話しています。ジョン・カビラの初めてのレギュラー生放送は、さらに翌日の10月3日午前7時でした。当時29歳だったジョン・カビラにとって、生放送そのものが初体験でした。

現在では大ベテランとして知られる二人が、実は開局時には生放送の新人だったというのは興味深い話です。ジョン・カビラが担当した朝の「TOKIO TODAY」で最初に流した曲は、ペット・ショップ・ボーイズの「Always On My Mind」。クリス・ペプラーが発表した最初の「TOKIO HOT 100」第1位は、フィル・コリンズの「A Groovy Kind of Love」でした。

当時の台本は手書きで、リクエストは、はがき、ファクス、電話で届きました。ジョン・カビラとクリス・ペプラーは、文字の癖が強く、なかなか判読できないリクエストもあったと笑いながら振り返っています。洗練された放送の裏側では、手書きの紙と電話が頼りだった時代です。

一方で、開局当日は祝賀一色ではありませんでした。1988年9月には昭和天皇の容体が悪化し、社会全体に行事や広告を控える空気が広がっていました。当初予定されていた海外からの祝賀メッセージなどは、状況に配慮して放送を見送ったと伝えられています。華やかなバブル期の開局でありながら、昭和の終わりを前にした緊張の中で始まった放送局でもありました。

開局時から初期を支えた5人の名物ナビゲーター

J-WAVEでは、出演者をDJやパーソナリティではなく「ナビゲーター」と呼びました。音楽や情報を一方的に説明するのではなく、リスナーを新しい世界へ案内する水先案内人という考え方です。ナビゲーターという呼称が放送界へ広がったことも、J-WAVEが残したものの一つです。

ここでは、1988年の開局メンバーと、開局後の早い時期に局の音を形づくった人物から5人を紹介します。

ジョン・カビラ

CBS・ソニーで海外アーティストに関わる仕事をした後、1988年の開局と同時にJ-WAVEへ加わりました。朝の「TOKIO TODAY」をはじめ、長年にわたって局の中心を担ってきました。

日本語と英語を自然に行き来する進行、張りのある声、海外のニュースや音楽を東京の朝へ持ち込む構成は、当時としては画期的でした。朝のFM番組といえば、鳥の声や穏やかな音楽から始まるものが多かった時代に、ジョン・カビラは朝から力強く呼びかけ、街を目覚めさせました。

2026年現在も「JK RADIO TOKYO UNITED」と「MIDDAY LOUNGE」を担当しています。開局時の精神を現在へ伝える、数少ない現役ナビゲーターです。

クリス・ペプラー

1988年10月2日に始まった「TOKIO HOT 100」を、開局時から担当しています。低く落ち着いた声、英語を生かした曲紹介、国内外の音楽に関する知識は、J-WAVEの音楽局としての信頼を支えてきました。

番組は、J-WAVEでのオンエア状況と音楽市場の動きを独自に集計し、東京で注目される100曲を紹介するものです。現在はストリーミング、ダウンロード、動画再生、CDセールス、SNSの動向も集計要素に加えています。

同じナビゲーターが一つの長寿番組を担当し続けてきたこと自体が、J-WAVEの歴史を物語っています。日曜日の午後にクリス・ペプラーの声が流れることは、開局当初からのリスナーにとって変わらない習慣となりました。

ルーシー・ケント

アメリカ人の父と日本人の母を持ち、幼少期から東京で育ちました。六本木のライブハウス「KENTO’S」で歌手として活動した後、1988年の開局と同時にJ-WAVEのナビゲーターとなりました。

明るさと落ち着きを備えた声、音楽を理解したうえでの曲紹介、日本語と英語を無理なくつなぐ進行が持ち味でした。開局からの5年間は夜の番組を担当し、その後も「ANTE MERIDIAN」などで親しまれました。

女性出演者が補助的な役割に置かれることも多かった時代に、番組の中心に立ち、自分の感性で音楽を紹介した女性ナビゲーターの草分けです。

ジェームス天願

ロサンゼルス生まれで、ハワイ大学から上智大学へ編入した経歴を持ちます。J-WAVE以前には、JCTVやNHKの英語ニュースに携わり、正確な英語と放送経験を身につけていました。

1988年、J-WAVEの昼のワイド番組に登場しました。深く柔らかな声と安定した語りは、長時間聴いても耳に負担をかけず、音楽の流れを崩さない初期J-WAVEの進行に適していました。日本語と英語を使えるだけでなく、言葉の間に音楽を置く技術を持ったナビゲーターでした。

その後は沖縄へ拠点を移し、各地のFM局やNHKの語学番組などでも活動しました。開局期のJ-WAVEが求めた国際性と放送技術を兼ね備えた人物です。

キャロル久末

開局初期のオーディションを経て起用され、夕方の番組などで存在感を示したバイリンガルナビゲーターです。のちに担当した「URBAN COLORS」は、1990年代前半のJ-WAVEを代表する平日夕方の番組となりました。

抑制の利いた声、歯切れの良い英語、余計な説明を重ねない進行が、仕事を終えた東京の街によく似合いました。音楽を邪魔せず、それでいて声を聴けば誰なのかすぐに分かる。その距離感に、初期J-WAVEの美学が表れていました。

1998年にJ-WAVEのナビゲーターとなったDJ TAROも、大学時代は朝にジョン・カビラ、帰宅時にキャロル久末を聴いていたと語っています。後に続くナビゲーターへ影響を与えた存在でもありました。

J-WAVEが生み、広げたもの

J-WAVEの功績として最も知られているのが、「J-POP」という言葉です。

開局当初は洋楽中心でしたが、日本の作品を一切流さなかったわけではありません。海外の楽曲と並べても放送の流れを崩さず、従来の歌謡曲やニューミュージックという分類だけでは捉えにくい日本のポップスを、局内でJ-POPと呼ぶようになりました。

言葉が使われ始めた正確な時期や、最初に提案した人物については関係者の証言に違いがあり、1988年末から1989年初めごろと考えられています。この点は断定できません。ただし、J-WAVEがこの言葉の発祥地となり、放送を通じて世の中へ広げたことは、局自身や複数の音楽関係者が認めています。

1989年の「TOKIO HOT 100」年間チャートに入った日本人アーティストは佐野元春だけで、1992年には一組も入りませんでした。それほど洋楽の比率が高かったのです。その厳しい選曲の中でオンエアされることは、日本のアーティストやレコード会社にとって一つの評価となりました。

J-WAVEはワールドミュージック、アシッドジャズ、R&B、クラブミュージックなどを早い時期から紹介しました。渋谷系と呼ばれた音楽の受け手を育て、日本のポップスが海外の音楽と同じ流れで聴かれる環境づくりにも寄与しました。J-WAVEがそれらの音楽を単独で生み出したわけではありませんが、東京の幅広い層へ届ける重要な媒体だったことは確かです。

曲の合間を短い言葉とジングルでつなぎ、ニュース、天気、交通情報まで共通の音響設計に組み込む手法も、その後のFM局に大きな影響を与えました。番組単位ではなく、放送局全体の音を設計するという発想です。

1993年10月には、FM NORTH WAVE、J-WAVE、ZIP-FM、FM802、CROSS FMの5局によるJAPAN FM LEAGUE、JFLが結成されました。全国へ同じ番組を大量に流す一般的なネットワークとは異なり、各局の自主性と地域性を保ちながら、音楽キャンペーンや特別番組などで連携する組織です。J-WAVEの放送思想が東京だけにとどまらず、各都市の個性的なFM局と結びついた出来事でした。

開局10年、1998年前後の変化

開局10周年を迎えた1998年ごろ、J-WAVEの選曲と番組編成は、開局時とは明らかに変わり始めていました。

宇多田ヒカル、MISIA、UA、スガシカオ、CHARA、Dragon Ashなど、海外の音楽から影響を受けながら独自の作品を作る日本人アーティストが次々に登場しました。J-WAVEが日本の音楽を増やしたという側面と、J-WAVEの選曲に合う日本の音楽そのものが増えたという側面の両方があります。

1997年にはクリス智子が担当する「BOOM TOWN」が始まり、1998年にはピストン西沢による「GROOVE LINE」が登場しました。「GROOVE LINE」は音楽だけでなく、投稿、笑い、街頭スタジオの熱気を前面に出し、従来の静かなJ-WAVE像を大きく変えました。

この変化を歓迎した人がいる一方で、初期の抑制された放送を好む人からは、話しすぎる、にぎやかすぎるという声も出るようになります。しかし、開局時の形式を守るだけでは、新しい世代の生活や日本の音楽シーンと離れてしまった可能性もあります。10周年前後は、音楽専門局に近い存在から、東京の総合的なカルチャー局へ向かい始めた時期でした。

開局20年、放送局から都市型メディアへ

2003年10月、開局15周年に合わせて、本社とスタジオを西麻布から六本木ヒルズ森タワー33階へ移しました。同時に会社名も株式会社エフエムジャパンから株式会社J-WAVEへ変更され、ブランド名と社名が統一されました。

2000年代には、アーティストが日替わりで番組を担当する「OH! MY RADIO」などが始まり、出演者本人の言葉やリスナー投稿を重視する番組が増えました。開局時の匿名性に近い音楽空間から、誰が話しているのかを番組の魅力にする方向へ、さらに軸足が移っています。

一方で、放送以外への展開も進みました。「J-WAVE LIVE」は2000年に始まり、2008年には六本木ヒルズと共同で無料ライブ「TOKYO M.A.P.S」を開始しました。ラジオで音楽を紹介するだけでなく、リスナーが会場で音楽や文化を体験できる場をつくるようになったのです。

インターネットへの取り組みも早く、独自の音楽配信サービス「Brandnew J」を展開しました。2010年にはradikoの試験配信に参加し、受信機で電波を受けるだけだったラジオが、パソコンやスマートフォンでも聴かれる時代へ入ります。

2008年の開局20周年は、J-WAVEが一つのFM放送局から、音楽、ウェブ、イベントを結ぶ都市型メディアへ変わった時期と重なります。

送信所を東京タワーから東京スカイツリーへ

放送技術の面で大きな転換となったのが、2012年4月23日の送信所移転です。開局以来の東京タワーから東京スカイツリーへ移り、午前5時から新送信所による本放送を始めました。

周波数は81.3MHzのままですが、出力は10kWから7kWとなりました。空中線電力だけを見ると小さくなっていますが、送信高は約550mとなり、高層建築物による遮蔽を避け、首都圏へ安定して電波を届けることが主な目的でした。

その後、港区南西部などの受信環境を補うため、2015年11月1日に六本木ヒルズ森タワーから88.3MHz、100Wで送信する「みなと中継局」が運用を開始しました。2026年現在、親局は東京スカイツリーの81.3MHz、7kW、みなと中継局は88.3MHz、100Wです。

開局30年、2018年のJ-WAVE

2018年の開局30周年には「OVER THE WAVE」を掲げ、これまでのJ-WAVE自身を越える一年と位置づけました。六本木ヒルズ全体を使った「TOKYO SOUND EXPERIENCE」や、音楽とテクノロジーを結ぶ「INNOVATION WORLD FESTA」など、放送の枠を越えた事業を展開しました。

30周年を迎えた時点で、SNSとスマートフォンは日常の道具となり、番組への反応は放送中に届くようになっていました。ジョン・カビラは、ラジオは不特定多数の「皆さん」ではなく、一人の「あなた」へ話すメディアだと語っています。同時に、検索すれば情報が得られる時代だからこそ、放送局には何を選び、どう並べ、どのような視点で届けるのかという役割が残るとも述べています。

東日本大震災を経験したことも、J-WAVEの放送姿勢へ影響を与えました。音楽と都市生活を扱うだけでなく、被災地やコミュニティFMとつながり、社会課題や防災を継続して伝える番組やキャンペーンが増えていきました。

現在のJ-WAVE

2020年代のJ-WAVEは、FM放送、radiko、公式アプリ、ウェブ記事、動画、ポッドキャスト、ライブイベントを組み合わせた音声メディアとなっています。2022年には「J-WAVE LIVE」を、音楽とマーケットを融合した「INSPIRE TOKYO」へ発展させました。

2026年の番組表を見ると、平日は「J-WAVE TOKYO MORNING RADIO」「STEP ONE」「TALK TO NEIGHBORS」「MIDDAY LOUNGE」「GRAND MARQUEE」「JAM THE PLANET」などが並びます。音楽だけでなく、働き方、経済、テクノロジー、食、健康、社会課題、映画、文学、都市文化など、扱うテーマは開局時より格段に広くなりました。

現在も「TOKIO HOT 100」「SAUDE! SAUDADE…」など、開局期から続く音楽番組が残っています。2025年秋に始まった「MIDDAY LOUNGE」では、ハリー杉山、市川紗椰、クリス・ペプラー、ジョン・カビラが曜日ごとに担当し、音楽と落ち着いたトークを中心に据えています。初期のJ-WAVEを知る人にも親しみやすい時間帯といえるでしょう。

ただし、局全体で見れば、人物を前面に出した番組、ゲストとの対談、リスナー投稿、企業提供のコーナー、ウェブやSNSと連動する企画が増えています。J-WAVEは、音楽を長く流す放送局から、音楽を軸に多様な情報と人を結ぶメディアへ変わりました。

かつてのJ-WAVERが感じる物足りなさ

開局当初の熱心なリスナーを「J-WAVER」と呼んでいたと記憶する人は少なくありません。ただし、この呼び方がJ-WAVEの正式なリスナー呼称だったのか、いつから使われたのかについては、確認できる一次資料が限られています。現在の公式な会員サービスは「J-me」、店舗や職場のリスナーを結ぶ取り組みは「TEAM J-WAVE」と呼ばれています。

往年のリスナーから、今のJ-WAVEは面白くない、昔のような新鮮さがないという声が聞かれる理由は、懐古趣味だけでは説明できません。

初期のJ-WAVEは、選曲、声、ジングル、間の取り方まで、局全体に一貫した基準がありました。洋楽中心という分かりやすい違いだけでなく、説明しすぎない、出演者が前へ出すぎない、曲の余韻を切らない、知られていない音楽を局の責任で選ぶという姿勢がありました。リスナーは受け身でありながら、自分では探せなかった音楽に出会うことができました。

現在は番組ごとの企画や出演者の個性が強く、短いコーナーが連続する構成も多くなりました。国内アーティストの比率が増え、テレビや動画配信で知られる俳優、タレント、アイドル、芸人がナビゲーターを務める番組もあります。放送の入口は増えましたが、どの時間に聴いても同じ局だと分かる統一された音の感触は、初期より薄くなったと感じられます。

一方で、開局当時の方法をそのまま続ければよいとも言い切れません。現在は、世界中の音楽を定額配信サービスで自由に聴くことができます。曲を長時間流すだけなら、ラジオより利用者の好みに合わせられるサービスが無数にあります。広告で運営する民放ラジオが、音楽だけで独自性と収益を維持することは難しくなりました。

そのため、J-WAVEは会話、情報、物語、イベント、コミュニティへ領域を広げてきました。これは生き残るための変化であり、新しいリスナーを得るための選択でもあります。現在のJ-WAVEを支持する人にとっては、音楽だけに閉じず、東京の社会や文化を幅広く知ることができる点が魅力です。

問題は、昔と同じか違うかではありません。J-WAVEでなければ出会えない音楽や考え方が、現在の編成にどれだけ残っているかです。出演者の知名度やSNS上の話題に頼るだけでは、J-WAVEが長年培ってきた選曲と音響設計の価値が薄れてしまいます。

これからのJ-WAVEに期待したいこと

J-WAVEの原点は、洋楽の多さだけではありません。東京の少し先を見て、まだ広く知られていない音楽や文化を、自らの判断で選び、上質な音として届けることでした。

現在の番組にも、取材力、対話力、音楽への敬意、社会課題を継続して扱う姿勢があります。そこへ初期のJ-WAVEが持っていた、言葉を詰め込みすぎない進行、曲を最後まで聴かせる時間、局全体を貫く選曲方針を改めて組み合わせることができれば、往年のリスナーと新しい世代の双方に届く放送になるのではないでしょうか。

サブスクリプションは、利用者が知っている曲や好みに近い曲を選ぶことに優れています。ラジオに期待したいのは、その人の検索履歴には出てこない一曲を届けることです。偶然の出会いを編集し、声と音楽の順番に意味を持たせることは、今も放送局にしかできない仕事です。

81.3MHzは、1988年の東京に新しいラジオの形を提示しました。38年近くがたち、放送を取り巻く環境は大きく変わりましたが、未来の音を選び、街へ送り出す役割まで失われたわけではありません。

8月13日の「J-WAVEの日」に、現在の番組を聴きながら、かつて西麻布から始まった音を思い出してみるのもよいかもしれません。そして、次の時代のJ-WAVEがどのような一曲を私たちへ届けてくれるのか、これからも81.3MHzに耳を傾けてみたいと思います。

本日も最後までお読みいただきまして誠にありがとうございました!
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