石川県を代表する新聞社である北國新聞社と、県内で最も長い歴史を持つ民間放送局である北陸放送。2026年7月現在の両社は、北國新聞社が北陸放送の筆頭株主となり、北國新聞社の元社長、元会長で現在は名誉会長を務める飛田秀一氏が北陸放送の代表取締役会長に就任するなど、資本面と人事面の双方で深い関係にあります。
ところが、両社の歴史をさかのぼると、最初から現在まで一貫して緊密な関係にあったわけではありません。
北陸放送は、もともと北國新聞社長だった嵯峨保二氏が中心となって設立した放送局です。戦後しばらくは同じ嵯峨家が新聞と放送の経営に関わり、北國新聞と北陸放送は「兄弟企業」ともいえるほど近い関係にありました。
しかし1980年代になると両社の関係は大きく変化します。それまで放送されていた「北國新聞ニュース」の名称が姿を消し、北國新聞紙面における北陸放送の扱いにも変化が見られるようになります。北陸放送では北陸中日新聞などとの広告面での接点が目立つようになり、一方の北國新聞社は、後に開局するテレビ金沢との関係を深めていきました。
さらに1997年には、北陸放送でテレビコマーシャルの未放送問題が発覚します。この問題によって経営体制は大きく変わり、長年北陸放送を経営してきた嵯峨家の影響力も急速に後退しました。
その後、北國新聞社は北陸放送の株式を増やし、再び筆頭株主となりました。「北國新聞ニュース」の放送も復活し、2007年には飛田秀一氏が北陸放送の取締役に就任。2024年には代表取締役会長となっています。
この複雑な関係を理解する上で重要なのが「嵯峨家」「1980年代の関係変化」「1997年のテレビコマーシャル未放送問題」「北國新聞社とTBSグループの資本関係」「飛田秀一氏」という要素です。
今回は、確認できる資料をもとに、北陸放送と北國新聞社の関係を改めて整理してみたいと思います。
創業家による一体経営から法人同士の協力へ
北陸放送と北國新聞社の関係を大きく分けると、次のようになります。
| 時代 | 両社の関係 |
|---|---|
| 1950年代~1970年代 | 嵯峨家を中心とした緊密な協力関係 |
| 1980年代~1990年代 | 経営構造の変化に伴い関係が冷却 |
| 2000年代以降 | 北國新聞社が北陸放送への出資を拡大し協力関係を再構築 |
| 2020年代 | 北國新聞社とTBSグループが主要株主として並ぶ経営体制 |
重要なのは、1950年代から1970年代にかけての関係と現在の関係は、一見すると似ているようで中身が大きく異なることです。
かつては、嵯峨家という一族が新聞と放送の双方に深く関わることで両社が結び付いていました。
現在は北國新聞社という法人が北陸放送の筆頭株主となり、株式会社TBSホールディングスもほぼ同じ割合の株式を保有しています。人事面でも北國新聞社出身者とTBSテレビなどの出身者が経営に加わっています。
つまり現在の北陸放送は、特定の一族による経営ではなく、北國新聞社、TBSグループ、地域企業、学校法人、自治体などが株主として関わる企業へと変化しています。
北陸放送を創設した嵯峨保二氏
北陸放送の前身となる北陸文化放送株式会社は1951年12月に設立され、1952年5月に日本海沿岸で最初の民間ラジオ放送を開始しました。同年11月には北陸放送株式会社へ商号を変更し、1958年12月1日にテレビ放送を開始しています。
この北陸放送の創設を主導した人物が、当時の北國新聞社長だった嵯峨保二氏です。
講談社の「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」でも、嵯峨保二氏について、北國新聞社長を務め、1951年に北陸放送を創設した人物として紹介されています。
嵯峨保二氏は新聞や放送だけではなく、教育分野にも大きな足跡を残しました。北陸電波専門学校の運営などにも関わり、戦後の石川県における文化、教育、メディアの発展に大きな影響を与えた人物です。
1959年11月に嵯峨保二氏が亡くなった際には、北國新聞と北陸放送による合同社葬が行われています。当時の両社がいかに近い関係にあったかを象徴する出来事といえるでしょう。
北陸放送の旧社屋は北國新聞社に近い場所にあり、ラジオでは「北國新聞ニュース」が放送され、テレビでも「北國新聞・MROニュース」という番組名が使われていました。
なお「北國新聞・MROニュース」は当時の正式な番組名であるため、この固有名詞についてのみ当時の表記を使用します。
新聞社が持つ地域取材網で集めた情報を放送局が電波で伝えるという、新聞と放送の典型的な協力関係が形成されていたわけです。
当時の北國新聞と北陸放送は、単なる取引先や報道機関同士というより、同じ創業者と一族によって結び付けられた地域メディアグループに近い存在だったと考えた方が実態に近いと思います。
嵯峨家が担った北國新聞と北陸放送
1959年に嵯峨保二氏が亡くなると、新聞と放送の経営は嵯峨家の中で分かれていきます。
| 人物 | 主な役割 |
| 嵯峨保二氏 | 北國新聞社長 北陸放送創設者・初代社長 |
| 嵯峨喬氏 | 嵯峨保二氏の長男 北國新聞社長 |
| 嵯峨逸平氏 | 嵯峨保二氏の次男 1959年から北陸放送社長 |
| 嵯峨春平氏 | 嵯峨逸平氏の長男 1993年から北陸放送社長 |
嵯峨保二氏の長男である嵯峨喬氏が北國新聞を、次男の嵯峨逸平氏が北陸放送を担う形となりました。
ところが嵯峨喬氏は1963年に亡くなり、その後の北國新聞では宮下与吉氏、宮下明氏、岡田尚壮氏らが社長を務めるようになります。
一方、北陸放送では嵯峨逸平氏が1959年から1993年まで約34年間にわたって社長を務め、その後、長男の嵯峨春平氏が社長に就任しました。
つまり、北國新聞では嵯峨家による直接的な経営が次第に薄れていったのに対し、北陸放送では1990年代まで嵯峨家による経営が続いたことになります。
この両社の経営構造の違いは、その後の関係を考える上で重要です。
ただし、ここで注意しておきたいことがあります。
「嵯峨家内部の個人的な対立が、そのまま北國新聞と北陸放送の対立に発展した」とする説明を見かけることがありますが、今回確認した公開資料の範囲では、1980年代の関係変化を特定の人物同士の個人的対立だけで説明できる一次資料は確認できませんでした。
事実として確認できる人事、株式、番組名、新聞紙面、広告などの変化を中心に見ていくべきでしょう。
1985年秋に表面化した両社の距離
北國新聞と北陸放送の関係が表面上も大きく変化した時期として知られているのが1985年秋です。
それまで北陸放送のテレビで使われていた「北國新聞・MROニュース」、ラジオの「北國新聞ニュース」という名称がこの時期に姿を消しました。
北國新聞紙面における北陸放送の扱いにも変化が見られ、1986年から1989年頃にかけて北陸放送の番組広告がほとんど掲載されない時期があったとする資料もあります。
両社が公式に「対立」や「絶縁」を発表したわけではありません。
しかし、それまで長く使われてきた「北國新聞」の名前が北陸放送のニュース番組から消え、新聞紙面の広告にも変化が生じたことから、両社の関係が以前より大きく冷え込んだことはうかがえます。
1985年という時期も重要です。
石川県では新たな民間テレビ局の開設に向けた動きが始まり、新聞社、放送局、在京の新聞社やテレビ局などによる新しい資本関係が形成されつつありました。
そのため、この時代の北國新聞と北陸放送の関係は、単なる一企業同士の問題ではなく、石川県の放送業界全体が再編されていく過程の一つとして考える必要があります。
テレビ金沢開局が変えた石川県のメディア構造
1990年4月には、日本テレビ系列のテレビ金沢が開局しました。
テレビ金沢は北國新聞社と深い関係を持つ放送局となり、北國新聞社にとってテレビ分野における重要な協力先となりました。テレビ金沢は2026年現在も日本テレビ系列の放送局として石川県内で放送を行っています。
その翌年の1991年には北陸朝日放送も開局し、石川県の民間テレビは北陸放送、石川テレビ放送、テレビ金沢、北陸朝日放送の4局体制となりました。
北國新聞と北陸放送の距離が広がった1980年代は、石川県の民間放送が2局体制から4局体制へ移行する直前の時代でもありました。
北國新聞社が新しいテレビ局との関係を築き、北陸放送がTBSテレビ系列の放送局として独自の道を歩むようになったことは、両社の関係にも少なからず影響したと考えられます。
北陸中日新聞との関係はどうだったのか
北國新聞との関係が冷え込んだ時期、北陸放送では北陸中日新聞のテレビコマーシャルが放送され、北陸中日新聞紙面でも北陸放送の番組広告を見る機会が増えました。
そのため当時の視聴者や読者の中には「北陸放送が北國新聞から北陸中日新聞側へ移った」という印象を持った人もいたようです。
毎日新聞社との関係が深まったとする資料もありますが、新聞社との具体的な提携内容や資本面を含めた関係について、今回確認した公開一次資料だけから全容を断定することは困難です。
少なくとも広告や紙面上では、北國新聞との関係が冷えた時期に、北陸中日新聞との接点が目立つようになったことは、当時のメディア関係を考える上で興味深い部分です。
北陸中日新聞ニュースは北陸放送で放送されたのか
当時を知る人の記憶として「北陸放送ラジオで北陸中日新聞ニュースを聴いた」という話が出ることがあります。
ただし、現在公開されている北陸放送の公式沿革や確認できた番組資料からは、「北陸中日新聞ニュース」という正式な番組名で北陸放送が放送していたことや、その放送期間を確定することはできませんでした。
現在、石川テレビ放送では北陸中日新聞との関係を示すニュース番組が長年放送されているため、異なる放送局の記憶が混在している可能性も考えられます。
確認できない事実を断定することは避け、本記事では「北陸放送と北陸中日新聞の広告面などでの接点が目立つ時期があった」とするにとどめます。
1997年のテレビコマーシャル未放送問題
北陸放送の経営体制を大きく変える契機となったのが、1997年に発覚したテレビコマーシャル未放送問題です。
広告主から受注したスポットコマーシャルの一部が契約通りに放送されていなかった問題で、北陸放送は広告主や広告会社への補償を迫られました。
石川県立図書館に保存されている1997年9月6日付の北陸中日新聞の記事記録には、北陸放送の代表取締役3人が辞意を示し、補償額が約4億8,000万円に上ったことが記録されています。
同年8月の記事からも、会社側が謝罪し、経営責任を求める声が社内から上がっていたことが確認できます。
この問題を受け、嵯峨春平氏は社長を退き、長年にわたり北陸放送の経営に携わってきた嵯峨家の影響力も大きく後退していきます。
その後の北陸放送では、TBSグループとの関係が経営面でも強まっていきました。
1992年3月末の資本構成では、嵯峨逸平氏が42,000株、11.66%、嵯峨春平氏が31,000株、8.61%を保有し、親子で約20%の株式を保有していました。
2003年3月末になると、嵯峨逸平氏は20,100株、5.58%、嵯峨春平氏は10,300株、2.86%となり、両者を合わせても約8.4%まで低下しています。
株式保有の推移から見ても、1990年代後半以降、嵯峨家の北陸放送に対する影響力が次第に低下していったことが分かります。
北國新聞との関係修復は段階的に進んだ
嵯峨家が北陸放送の経営の第一線から退いた後、北國新聞社と北陸放送の関係は徐々に変化していきます。
資料によって時期の記載には違いがありますが、2000年代初頭には北陸放送ラジオで「北國新聞ニュース」が再び放送されるようになったとされています。
2026年7月13日時点でも北陸放送ラジオでは「北國新聞ニュース・天気予報」が編成されており、北國新聞社と北陸放送の現在の協力関係を、リスナーが最も分かりやすく実感できるものの一つとなっています。
資本面でも北國新聞社による北陸放送株式の保有が増え、2000年代半ばには再び主要株主となりました。2006年度には筆頭株主へ復帰したとされています。
さらに2007年6月、北國新聞社の社長・主筆を務めていた飛田秀一氏が北陸放送の取締役に就任しました。
つまり、現在の北國新聞社と北陸放送の関係が2024年になって突然生まれたわけではありません。
ニュース提供、株式取得、役員派遣という段階を経ながら、20年以上かけて少しずつ関係が再構築されてきたと考えることができます。
2026年3月末の北陸放送株主構成
北陸放送が2026年6月29日に提出した第97期有価証券報告書によると、2026年3月31日現在の主な株主は次の通りです。
| 株主 | 所有株式数 | 持株比率 |
|---|---|---|
| 株式会社北國新聞社 | 35,130株 | 9.76% |
| 株式会社TBSホールディングス | 33,678株 | 9.36% |
| 株式会社北國銀行 | 18,000株 | 5.00% |
| 学校法人金沢学院大学 | 15,065株 | 4.18% |
| 株式会社大和 | 14,710株 | 4.09% |
| 電気興業株式会社 | 14,000株 | 3.89% |
| 北國総合リース株式会社 | 12,550株 | 3.49% |
| 石川県 | 12,000株 | 3.33% |
| 金沢市 | 11,480株 | 3.19% |
| 株式会社北紡 | 11,125株 | 3.09% |
北國新聞社が筆頭株主ですが、持株比率は9.76%です。
これに対して株式会社TBSホールディングスは9.36%で、その差はわずか0.40ポイントしかありません。
したがって、北陸放送を「北國新聞社の子会社」と表現するのは正確ではありません。
北國新聞社は最大株主ではありますが、単独で過半数を保有しているわけではなく、株式会社TBSホールディングスもほぼ同程度の株式を保有しています。
また、株式会社北國銀行は北國新聞社とは別の法人です。名称に「北國」と入っていますが、北國銀行が保有する5.00%を北國新聞社の9.76%へ加算して考えることはできません。
学校法人金沢学院大学についても同様で、人的なつながりがあったとしても独立した学校法人です。
現在の北陸放送は「北國新聞社が筆頭株主となり、株式会社TBSホールディングスもほぼ同じ割合の株式を保有する地域放送会社」と説明するのが最も正確でしょう。
飛田秀一氏と嵯峨家の関係
飛田秀一氏は嵯峨家の一族ではありません。
飛田氏は1964年に北國新聞社へ入社し、記者として勤務した後、編集部門などを経て1989年に代表取締役専務・主筆、1991年に代表取締役社長・主筆となりました。
2012年には北國新聞社代表取締役会長、2024年1月には名誉会長となっています。
一方、北陸放送では2007年6月に取締役へ就任し、2024年6月に代表取締役会長となりました。2026年6月29日に提出された有価証券報告書でも代表取締役会長として記載されています。
飛田氏個人が大量の北陸放送株式を保有し、それを根拠として会社を支配しているわけではありません。
飛田氏の北陸放送会長就任は、北國新聞社と北陸放送という法人同士の関係や、長年にわたる新聞社経営の経験を背景とする役員人事と考えるべきでしょう。
また、1985年前後に北國新聞と北陸放送の関係が悪化した原因について、「飛田氏と嵯峨家の個人的な対立」と説明される場合があります。
しかし、飛田氏が北國新聞社長に就任したのは1991年です。1985年当時は取締役・編集局長などを務めていた時期であり、両社の関係変化を飛田氏個人の判断だけに帰することができる公開資料は確認できませんでした。
人物同士の対立という分かりやすい物語に置き換えるのではなく、新聞社と放送局それぞれの経営構造、資本関係、新規民間テレビ局の開局、広告市場など複数の要因から考える必要があります。
現在の経営陣に見る北國新聞社とTBSグループ
2026年7月13日時点の北陸放送では、飛田秀一氏が代表取締役会長、島田喜広氏が代表取締役社長を務めています。
島田氏は1984年に株式会社東京放送へ入社し、TBSテレビ報道局ニュースセンター長、米国法人社長兼ニューヨーク支局長、TBSテレビ情報制作局長、株式会社テレパック代表取締役社長などを経て、北陸放送の代表取締役社長となりました。
常務取締役には、北國新聞社出身の森田奈々氏が就任しています。
森田氏は1999年に北國新聞社へ入社し、文化部長、社長室広報部長兼秘書部長、編集局次長兼統括デスク長、統合編集長などを経て、2024年6月に北陸放送の常務取締役となりました。
また、2026年6月には株式会社東京放送出身の小長光仁氏が常務取締役に就任しています。
現在の役員構成を見ると、北國新聞社側の人材とTBSグループ側の人材がともに北陸放送の経営に関わっていることが分かります。
資本面でも、北國新聞社9.76%、株式会社TBSホールディングス9.36%とほぼ拮抗しています。
地域の取材網や人脈を持つ北國新聞社と、全国テレビネットワークや放送事業の知見を持つTBSグループ。その双方と深い関係を持つ現在の経営体制は、北陸放送の特徴の一つといえるでしょう。
資本関係と報道内容は分けて考える必要がある
北國新聞社が筆頭株主であり、北國新聞社出身者が北陸放送の代表取締役会長や常務取締役を務めていることから、「北陸放送の報道は北國新聞社の影響を受けているのではないか」と考える人もいるかもしれません。
しかし、資本関係や役員の出身企業だけを根拠に、個々のニュースや番組内容が北國新聞社によって決められていると断定することはできません。
北陸放送は独立した放送事業者であり、独自の放送番組基準を定めています。
北陸放送の放送番組基準では、言論や表現の自由と公正を守り、社会の信頼に応えることなどを基本方針として掲げています。
株主構成と報道内容は関連付けて考えたくなるテーマではありますが、企業統治の関係と個別の編集判断は分けて検証する必要があります。
なぜ再び協力関係を強めたのか
新聞、テレビ、ラジオを取り巻く環境は、1980年代とは大きく変わっています。
人口減少が進み、新聞の発行部数が減少し、テレビ視聴のあり方も変化しています。インターネットニュース、動画配信、SNSなどが普及し、広告市場も大きく変化しました。
地方の新聞社や放送局が、それぞれ単独で大規模な取材網、営業網、制作設備を維持し続ける負担は以前より重くなっています。
一方、2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震では、地域に取材拠点を持つ新聞社や放送局の重要性が改めて浮き彫りになりました。
災害発生時には、全国向けのニュースだけでは十分ではありません。
どの道路が通れるのか、どの避難所が開設されているのか、地域の生活インフラはどうなっているのか。地域に人員と取材拠点を持つ報道機関だからこそ集められる情報があります。
北國新聞社には石川県を中心とする新聞取材網があり、北陸放送にはテレビ、ラジオ、インターネットを通じて映像や音声を迅速に届ける機能があります。
新聞の取材力と放送の速報性は本来、非常に相性の良い組み合わせです。
両社の現在の関係は、1950年代のような創業家による一体経営へ戻ったと見るよりも、地域メディアが厳しい環境の中で取材力と発信力を維持するための新しい協力関係と見る方が適切ではないでしょうか。
北陸放送と北國新聞の歴史から見えるもの
北陸放送は、北國新聞社長だった嵯峨保二氏が中心となって誕生しました。
その後、嵯峨家の長男が北國新聞、次男が北陸放送を担い、新聞と放送が同じ一族によって結び付けられる時代が続きました。
しかし北國新聞側では嵯峨家による直接的な経営が次第に薄れ、北陸放送では嵯峨逸平氏、嵯峨春平氏による経営が続きます。
1980年代半ばになると両社の距離は広がり、北國新聞の名称を冠したニュース番組が北陸放送から姿を消しました。北國新聞社はテレビ金沢との関係を深め、北陸放送では北陸中日新聞などとの広告面での接点が目立つ時期もありました。
1997年のテレビコマーシャル未放送問題は、北陸放送の経営にとって大きな転機となりました。
嵯峨家の影響力が後退し、TBSグループとの関係が経営面でも強まります。その後、北國新聞社が北陸放送の株式を増やし、「北國新聞ニュース」が再び放送されるようになり、2007年には飛田秀一氏が取締役に就任しました。
2024年には飛田氏が北陸放送の代表取締役会長となり、2026年現在、北國新聞社は9.76%を保有する筆頭株主、株式会社TBSホールディングスは9.36%を保有する第2位株主となっています。
この約70年の歴史を見ると、北陸放送と北國新聞社の関係を単純に「仲が良かった」「対立した」「仲直りした」という三つの言葉だけで説明することはできません。
創業家の存在、経営者の交代、資本構成、県内テレビ局の増加、広告市場、放送局の経営問題、在京キー局との関係、地域メディアを取り巻く経営環境など、多くの要素が重なりながら関係は変化してきました。
同じ「協力関係」であっても、1950年代と2026年では、その意味は大きく異なります。
かつては嵯峨家という一族が新聞と放送をつないでいました。
現在は、北國新聞社と北陸放送という独立した法人が資本と人材を通じて関係を持ち、その一方で株式会社TBSホールディングスもほぼ同じ割合の株式を持っています。
私はラジオやテレビの歴史を調べることがありますが、放送局そのものだけを見ていては分からないことがたくさんあります。
新聞社との関係、株主構成、歴代経営者、ネットワーク系列、広告市場まで追っていくと、その地域でなぜその放送局が生まれ、なぜ現在の形になったのかが見えてきます。
北陸放送と北國新聞社の歴史は、戦後の石川県における地域メディアの歩みを考える上でも、非常に興味深い事例だと思います。






















コメントを残す