1991年10月1日、石川県4番目の民間テレビ放送局として北陸朝日放送が開局しました。
石川県にテレビ朝日系列のフルネット局が誕生したことで、それまで県内では見ることが難しかった数多くの番組が視聴できるようになり、石川県の民放テレビは北陸放送、石川テレビ放送、テレビ金沢、北陸朝日放送の4局体制となりました。北陸朝日放送の設立は1990年11月14日、開局は1991年10月1日であることが同社の会社案内でも確認できます。
ところが、この北陸朝日放送の開局前後を調べていくと、石川県を代表する地元紙である北國新聞との間に、一定の距離があったことをうかがわせる出来事がいくつも見えてきます。
インターネット上では「北陸朝日放送と北國新聞の対立」「確執」といった強い言葉で語られることもあります。しかし、当時の新聞紙面や放送局開設までの経緯を整理すると、単純に二つの会社が感情的に対立していたと考えるだけでは、この時代の実像を捉えることはできません。
その背景には、1980年代後半に国が進めた民放テレビの多局化、新聞社とテレビ系列の結び付き、1990年に開局したテレビ金沢、そして急速に変化した石川県の広告市場がありました。
北陸朝日放送と北國新聞の関係をたどりながら、石川県のテレビが2局から4局へと変わった時代を振り返ってみます。
石川県で約21年間続いた民放テレビ2局体制
石川県では1958年12月1日に北陸放送がテレビ放送を開始し、1969年4月1日に石川テレビ放送が開局しました。
北陸放送はTBS系列、石川テレビ放送はフジテレビ系列です。
その後、1990年4月1日にテレビ金沢が開局するまで、石川県では約21年間にわたって民放テレビ2局体制が続きました。
当時は現在のように、全国ネットの番組をそれぞれの系列局でほぼ同時に見ることができる環境ではありませんでした。
日本テレビ系列やテレビ朝日系列の番組の一部は北陸放送や石川テレビ放送が購入して放送していましたが、系列本来の放送時間とは異なる時間帯に編成される、いわゆる遅れネットになる番組もありました。
また、系列ネットワークを前提とする生放送のニュース・情報番組などは放送されないケースもありました。
石川県だけの特殊な事情ではありません。当時は全国各地に民放テレビが2局しかない地域が残されており、居住地域によって視聴できる全国番組に大きな違いが生じていたのです。
郵政省が進めた全国のテレビ多局化
この状況が大きく動き始めたのが1980年代後半でした。
南海放送の社史「南海放送50年史」には、全国の民放テレビ多局化へ向かう重要な経緯が記録されています。
1985年9月10日、金沢市で記者会見した左藤恵郵政大臣は、当時民放テレビが2局だった地域について、さらに1局を開設する考えを示しました。
同年12月には2局地域を3局化し、将来的には民放テレビを4チャンネル化する目標が示されます。
そして1986年1月17日、青森、秋田、岩手、山形、富山、石川、長崎の7地区へ3局目を割り当てるチャンネルプランの修正が決定されました。
つまり、石川県で新しいテレビ局を開局させる動きは、県内だけの事情から始まったものではありません。
全国的に進められた民放テレビ多局化政策の中で、石川県も新局開設の対象となったのです。
第3局として誕生したテレビ金沢
石川県への民放第3局の割り当てが決まると、新しいテレビ局の開設を目指して多くの免許申請が行われました。
当時の新局免許では、複数の申請者が競願した後、関係者による調整を経て申請を一本化し、一つの放送会社を設立する方式が採られることが一般的でした。
その結果として誕生したのがテレビ金沢です。
テレビ金沢は1990年4月1日、日本テレビ系列の放送局として開局しました。日本民間放送連盟の開局一覧でも、テレビ金沢の開局日は1990年4月1日と確認できます。
そして、テレビ金沢と深い関係を持つ地元メディアが北國新聞社でした。
この点が、後に北陸朝日放送と北國新聞の関係を考えるうえで重要になってきます。
第3局開局前から動き始めた第4局構想
興味深いのは、テレビ金沢が開局する前から、すでに石川県の第4局開設に向けた動きが始まっていたことです。
1989年11月13日、郵政省は石川県の4局目をはじめ、大分県、宮崎県などの多局化に向け、放送普及基本計画の変更を電波監理審議会へ諮問しました。
南海放送の社史にも、この時点で石川県の4局目開設が具体的な政策課題となっていたことが記録されています。
1990年1月25日付の北國新聞は「石川にテレビ第4波」と報じています。
新局開設をめぐって多数の免許申請が行われましたが、最終的には申請者間の調整が進められ、1990年11月14日に北陸朝日放送株式会社が設立されました。
1991年9月にはサービス放送を開始し、10月1日に本放送を開始します。
北陸朝日放送はテレビ朝日系列、デジタル放送の呼出符号はJOWY-DTVです。同社の公式資料では、設立日を1990年11月14日、開局日を1991年10月1日としています。
日本民間放送連盟の資料でも、1990年4月1日のテレビ金沢、1991年10月1日の北陸朝日放送という順序を確認できます。
この時系列は非常に重要です。
「北陸朝日放送と北國新聞が石川県の第3局免許を直接奪い合った」と説明されることがありますが、厳密には正しくありません。
北陸朝日放送株式会社が設立されたのはテレビ金沢の開局後です。
より大きな構図として見るならば、北國新聞、読売新聞、日本テレビ系列との関係を持つテレビ金沢が先に開局し、その後、朝日新聞、テレビ朝日、朝日放送などとの関係を持つ北陸朝日放送が第4局として加わった、と捉える方が実態に近いでしょう。
わずか1年半で民放2局から4局へ
石川県の民放テレビを時系列で並べると、この時期の変化の速さがよく分かります。
| 年月日 | 主な動き |
|---|---|
| 1986年1月 | 石川県への民放第3局割り当てが決定 |
| 1989年11月13日 | 石川県第4局開設に向けた計画変更を諮問 |
| 1990年4月1日 | テレビ金沢開局 |
| 1990年11月14日 | 北陸朝日放送設立 |
| 1991年10月1日 | 北陸朝日放送開局 |
1990年4月にテレビ金沢が開局し、そのわずか1年半後には北陸朝日放送が加わりました。
約21年間続いた民放2局体制が、ごく短期間で4局体制へ変わったことになります。
視聴者にとって選択肢が増えることは歓迎すべき変化でしたが、既存のテレビ局や新聞社、広告会社などにとっては、地域のメディア市場が一変する出来事でもありました。
北國新聞に見られた北陸朝日放送との距離
北陸朝日放送と北國新聞の関係を考える際、象徴的な出来事として挙げられるのが1991年10月1日の開局時の紙面です。
北國新聞は北陸朝日放送がサービス放送を始めた時期からテレビ番組表を掲載していました。
したがって、北國新聞が北陸朝日放送を紙面から排除していたわけではありません。
一方、北陸朝日放送が正式に開局した1991年10月1日付の北國新聞では、北陸朝日放送の大規模な開局広告は確認できません。
これに対して同日付の北陸中日新聞には、北陸朝日放送の開局を知らせる全面広告が掲載されていました。
ただし、この違いから「北國新聞が北陸朝日放送の広告掲載を拒否した」と断定することはできません。
新聞広告は広告主が出稿して初めて掲載されるものです。北陸朝日放送側が北國新聞への広告出稿を行わなかった可能性もあります。
どちら側の判断によるものだったのかを明確に示す一次資料は、確認できません。
それでも、石川県で新しい系列のテレビ局が誕生した開局日に、地元有力紙と新局との間で大規模な広告展開が行われなかったことは、当時の両社の関係を考えるうえで興味深い出来事です。元記事でも1991年9月から10月の紙面をもとに、この経緯を確認しています。
「月刊北國アクタス」に残る記録
北陸朝日放送開局直後の両社の関係については、北國新聞社が発行する「月刊北國アクタス」の記事もたびたび取り上げられています。
石川県立図書館の所蔵情報によれば、「月刊北國アクタス」は北國新聞社が1989年に創刊した総合月刊誌です。
二次資料では、北陸朝日放送開局直後の1991年に、同誌へ北陸朝日放送を厳しく評価する内容の記事が掲載されたとされています。
この点については扱いに注意が必要です。
当該号の記事全文をオンライン上の一次資料として確認することが難しく、見出しや一部分だけから記事全体の意図を判断することはできません。
したがって、「北陸朝日放送に対して批判的な内容の記事が掲載されたとする記録がある」とするにとどめ、北國新聞社が組織として北陸朝日放送を排斥していたとまで断定するべきではないでしょう。
こうした部分こそ、後世から当時のメディア関係を振り返る際に慎重さが求められます。
なぜ両社の間に距離が生まれたのか
では、北國新聞と北陸朝日放送の間に距離があったとすれば、その背景には何があったのでしょうか。
この理由について、両社が公式に詳細な説明を公表した資料は確認できません。
したがって、ここからは確認できる事実をもとに当時の業界構造を考える必要があります。
最大の要因として考えられるのがテレビ金沢の存在です。
テレビ金沢が1990年4月に開局し、その1年半後には北陸朝日放送が参入しました。
人口規模が限られた石川県のテレビ広告市場に新たな放送局が相次いで加われば、地元企業の広告予算や番組スポンサー、視聴率をめぐる競争が激しくなることは避けられません。
新聞社にとってテレビ局は単なる報道機関ではありませんでした。
戦後の民間テレビ放送では、新聞社、キー局、地方放送局が資本、ニュース、営業などさまざまな面で関係を築いてきました。
日本テレビと読売新聞、テレビ朝日と朝日新聞という全国レベルのメディア系列の関係も、地方テレビ局の形成に影響を与えています。
石川県でも、北國新聞社とテレビ金沢の関係がある一方、北陸朝日放送にはテレビ朝日や朝日新聞などの系列がありました。
さらに、新しいテレビ局を設立するためには、新聞社やキー局だけではなく、地元企業、金融機関をはじめとする地域経済界との調整も必要になります。
誰が出資するのか。
どの企業が新局を支援するのか。
どの系列へ参加するのか。
新しい放送局の誕生は、地域経済とメディアの力関係にも少なからず影響する出来事でした。
こうした複数の事情が重なった結果として、北陸朝日放送開局前後に北國新聞との間で距離が生まれたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
高校野球中継が北陸朝日放送の存在感を高めた
北陸朝日放送が石川県のテレビ局として存在感を高めていくうえで、大きな役割を果たした番組の一つが全国高等学校野球選手権石川大会の中継です。
北陸朝日放送は「めざせ甲子園」の名称で石川大会を積極的に放送してきました。
少なくとも2025年の大会でも、同局は開会式から決勝までテレビ生中継を実施すると公式に発表しています。
高校野球は、出場する高校や選手だけではなく、保護者、卒業生、地域住民など非常に多くの人が関心を寄せる地域密着型のコンテンツです。
開局から間もない北陸朝日放送にとって、県内各地の高校を連日取り上げる高校野球中継は、「石川県のテレビ局」として視聴者に認知される重要な機会だったと考えられます。
当時の高校野球中継をめぐって北國新聞に厳しい論調の記事が掲載されたとする二次資料もありますが、これについても紙面全体の文脈を確認したうえで評価する必要があります。
一方、北國新聞のテレビ欄に設けられていた読者投稿欄では、北陸朝日放送の高校野球中継を評価する意見も掲載されたと伝えられています。
新しいテレビ局への評価は、視聴者自身の判断によって次第に形成されていったのでしょう。
1992年に北國新聞へ北陸朝日放送の全面広告
両社の関係に変化が見え始めるのは、開局から約1年が経過した頃です。
1992年11月27日付の北國新聞には、北陸朝日放送の番組表を中心とした紙面1ページの広告が掲載されています。
開局時には大規模な広告が確認できなかった北國新聞に、北陸朝日放送の全面広告が掲載されたことになります。
これだけで、この日を境に両社が「和解した」と断定することはできません。
しかし、少なくとも北陸朝日放送が北國新聞を広告媒体として利用する関係になっていたことは確認できます。
新聞社にとってテレビ局は広告主になり得ます。
テレビ局にとって新聞社は広告媒体であると同時に、有力な広告主にもなり得ます。
地域のニュースやイベントを取材する場面では、同じ地域で活動するメディアとして顔を合わせる機会も数多くあります。
競争関係にありながら、必要な場面では取引し、協力する。
地方メディア同士の関係は、単純な敵対か友好かという二つの言葉だけで説明できるものではありません。
2021年には開局30周年事業を共同主催
その後の関係を象徴する出来事が、2021年に金沢21世紀美術館で開催された「アートアクアリウム展~金沢・金魚の密~」です。
北陸朝日放送開局30周年記念事業として開催されたこのイベントでは、主催の「アートアクアリウム展金沢実行委員会」に北陸朝日放送と北國新聞社がともに参加しました。
北陸朝日放送の公式開催概要には、北陸朝日放送、北國新聞社、サンライズプロモーション北陸、朝日放送テレビ、名古屋テレビ放送、新潟テレビ21が実行委員会を構成したことが明記されています。
北陸朝日放送自身の開局30周年事業を、北國新聞社と共同で主催していることになります。
1991年の開局前後に見られた距離を考えると、30年という年月の中で両社の関係が大きく変化してきたことを示す非常に分かりやすい事例です。
「対立」だけでは見えない石川県のメディア史
北陸朝日放送と北國新聞の歴史を調べる際、「対立」や「確執」という言葉は非常に分かりやすく、興味を引きます。
しかし、そこだけを切り取ってしまうと、本当に重要な背景が見えなくなります。
1980年代後半、国は全国的な民放テレビ多局化を進めました。
その流れの中で石川県には新しいチャンネルが割り当てられ、1990年にテレビ金沢、1991年に北陸朝日放送が相次いで開局しました。
約21年間続いた民放2局体制が、わずか1年半で4局体制に変わったのです。
これは視聴者にとってテレビの選択肢が増えただけではありません。
テレビ局が増えれば、ニュースを取材する記者やカメラも増えます。地域のスポーツや文化を取り上げる番組も増えます。地元企業には広告を出稿する媒体の選択肢が増える一方、放送局側では限られた広告予算をめぐる競争が激しくなります。
新聞社や地元経済界を含め、地域のメディアを取り巻く構造そのものが変わった時代だったのです。
北陸朝日放送と北國新聞の間に生まれたとされる距離も、この大きな変化の中で捉える必要があります。
石川県民放4局化が残したもの
1991年前後の資料を見る限り、北陸朝日放送と北國新聞の間には一定の距離があったと考えられます。
北陸朝日放送の開局日に北國新聞で大規模な開局広告が確認できないことや、北國新聞社が発行する月刊誌に北陸朝日放送を厳しく評価する記事が掲載されたとする記録などは、その時代の空気をうかがわせます。
ただし、両社が石川県の第3局免許を直接奪い合ったという説明は正確ではありません。
第3局として1990年4月1日に開局したのはテレビ金沢であり、北陸朝日放送はその後に第4局として1991年10月1日に開局しています。
また、両社の距離が生じた具体的な理由について、当事者が詳細を公式に説明した資料も確認できません。
だからこそ、後世から特定の人物や企業の感情的な対立として断定するのではなく、テレビ金沢の誕生、新聞社とテレビ系列の関係、地域の広告市場、地元経済界などが複雑に絡み合った結果として考える必要があります。
そして1992年には北國新聞へ北陸朝日放送の全面広告が掲載され、2021年には北陸朝日放送の開局30周年事業を北國新聞社と共同で主催しています。
地方の新聞社とテレビ局は競争相手である一方、地域の情報や文化を伝えるという役割を共有する存在でもあります。
北陸朝日放送と北國新聞の関係は、「仲が良い」「仲が悪い」という単純な話ではなく、石川県の民放テレビが2局から4局へと急速に変化した時代を映し出す、地域メディア史の興味深い一章として見るのが適切ではないでしょうか。
参照
- 北陸朝日放送 会社案内
- テレビ金沢 会社案内
- 日本民間放送連盟 民放テレビ開局一覧
- 南海放送50年史「愛媛の民放も多局化へ」
- 北陸朝日放送「アートアクアリウム展~金沢・金魚の密~」開催概要
- 北陸朝日放送「めざせ甲子園2025」
- 石川県立図書館「月刊北國アクタス」所蔵情報
- 『北國新聞』1990年1月25日付朝刊「石川にテレビ第4波」
- 『北國新聞』1991年9月23日付朝刊テレビ欄
- 『北陸中日新聞』1991年10月1日付朝刊 北陸朝日放送開局広告
- 『北國新聞』1992年11月27日付朝刊 北陸朝日放送広告






















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