アマチュア無線局 JF9OYU/ライセンスフリー無線局 いしかわJK946 です。いつもブログをお読みいただきまして、心より感謝申し上げます。
さて、「OHK」と聞くと岡山放送を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、かつてアメリカの施政権下にあった沖縄にも、同じ略称を持つ放送機関が存在しました。それが沖縄放送協会、Okinawa Hoso Kyokaiです。
沖縄放送協会は、1967年に琉球政府の放送法に基づいて設立された公共放送機関でした。活動期間は1972年の日本復帰までの約4年7か月にすぎません。しかし、その歩みをたどると、戦後沖縄の政治、通信事情、日本復帰への動きが一つにつながって見えてきます。
戦後の沖縄と途切れた公共放送
沖縄には戦前、日本放送協会の沖縄放送局が置かれていました。しかし、沖縄戦によって放送施設は失われ、終戦後の沖縄は日本本土とは異なる統治制度の下に置かれます。
1945年に沖縄へ上陸したアメリカ軍は、日本の行政権を停止して軍政を開始しました。その後、住民側の行政組織は沖縄諮詢会、沖縄民政府、群島政府などへ形を変え、1952年4月1日には琉球政府が発足します。
琉球政府には行政、立法、司法の仕組みが置かれましたが、その権限は琉球列島米国民政府、通称USCARの監督下にありました。同年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効した後も、沖縄は日本本土から行政上切り離され、アメリカの施政権下に残されました。
このため、沖縄にはNHKの地方放送局をそのまま再開できる環境がありませんでした。戦後の沖縄における放送は、琉球政府や民間企業、アメリカ側の放送機関などが関わる、本土とは異なる形で再建されていきます。
民間テレビの開局と本土との距離
沖縄で一般住民向けのテレビ放送が始まったのは、1959年11月1日の沖縄テレビ放送開局からです。翌1960年6月1日には、琉球放送もテレビ放送を開始しました。
ただし、この時点では日本本土と沖縄を結ぶテレビ中継回線がなく、本土で制作された番組のフィルムを航空便などで運び、沖縄で放送していました。本土で放送された番組を沖縄ですぐに見ることは難しく、放送には時間的な隔たりがありました。
状況が大きく変わったのは1964年です。東京オリンピックを前に、日本本土と沖縄を結ぶマイクロウェーブ回線が開通し、本土のテレビ番組を沖縄でも同時に受けられるようになりました。
テレビを通じて東京のニュース、スポーツ、文化番組などが家庭へ届くようになったことは、沖縄と本土との心理的な距離を縮める一因になりました。一方、テレビ放送が普及したのは主に沖縄本島であり、海を隔てた宮古・八重山などの先島諸島には、依然としてテレビを見られない地域が残されていました。
「先島にもテレビを」という声
沖縄は東西約1,000キロメートルに及ぶ広い海域に島々が点在しています。沖縄本島でテレビが日常生活に入り始めても、宮古・八重山では同じ情報を受け取れない状況が続いていました。
こうした地域間の情報格差を解消するため、1960年代半ばから先島諸島へのテレビ放送施設設置が具体的に検討されます。日本政府の調査団も派遣され、宮古や八重山で放送を行うための設備や運営方法が協議されました。
しかし、民間放送だけで広い離島地域を網羅するには、設備費や採算性の面で大きな課題があります。そこで必要とされたのが、広告収入を中心とする民間放送とは異なる、沖縄全域への放送を目的とした公共放送機関でした。
1967年、沖縄放送協会が発足
琉球政府は1967年9月19日、立法第122号として放送法を公布しました。この法律に基づき、同年10月2日に沖縄放送協会が発足します。
沖縄放送協会はNHKの沖縄支局ではありません。アメリカ施政権下の沖縄で、琉球政府の法律に基づいて設けられた別の法人です。NHKとは組織上区別されていましたが、番組や設備などの面では日本側から大きな支援を受けました。
この立場は少し複雑です。沖縄放送協会は沖縄独自の法制度によって設立された公共放送機関である一方、将来の日本復帰も視野に入れ、NHKに近い制度や放送体制を整えていく役割も担っていたからです。
沖縄本島より先に始まった先島の放送
沖縄放送協会の放送は、中央となる沖縄本島ではなく、テレビ放送の空白地帯だった先島諸島から始まりました。
1967年12月22日に宮古放送局が開局し、翌23日には八重山放送局が開局します。長くテレビを待ち望んでいた地域では、開局を記念する行事や祝賀パレードなども行われました。
沖縄本島ではすでに民間テレビ局が放送していたのに対し、宮古・八重山には住民向けテレビ放送そのものがありませんでした。そのため、先島への放送開始が最優先されたのです。
これは沖縄放送協会の性格をよく表しています。視聴者や広告収入の多い地域から事業を始めるのではなく、情報を受け取れない地域を先に解消することが、公共放送としての重要な使命でした。
ただし、当時は沖縄本島と先島諸島を結ぶ十分なテレビ中継回線が整っていませんでした。すべての番組を本島と同時に放送できたわけではなく、録画した番組を運んで放送するなど、離島ならではの苦労もありました。
NHKの設備支援と中央放送局の開局
沖縄本島に沖縄放送協会の放送設備を整備するため、日本では1968年4月、「沖縄におけるテレビジョン放送に必要な設備の日本放送協会による設置及び無償貸付けに関する法律」が施行されました。
この法律により、NHKは沖縄島にテレビ放送設備を設置し、沖縄放送協会へ無償で貸し付けることが可能になりました。沖縄放送協会は琉球政府の法律による法人でしたが、その放送基盤づくりを日本のNHKが支援するという、復帰前ならではの仕組みです。
1968年12月22日、沖縄本島で中央放送局が開局しました。これにより、沖縄放送協会は沖縄本島、宮古、八重山を結ぶ公共テレビ放送機関としての形を整えます。
沖縄放送協会の番組編成には、NHKから提供されたニュース、教育、教養、文化番組などが組み込まれました。民間放送局で放送されていたNHK番組の多くも、中央放送局の開局を機に沖縄放送協会へ移っていきます。
1969年4月には放送センターが完成しました。沖縄社会でテレビが急速に普及するなか、難視聴地域の解消、教育放送の充実、将来のラジオ放送など、沖縄放送協会には多くの課題と期待が寄せられていました。
沖縄放送協会と日本復帰への動き
沖縄放送協会が発足した1967年前後は、沖縄の日本復帰をめぐる政治が大きく動き始めた時期でもあります。
1967年11月、佐藤栄作首相とアメリカのジョンソン大統領との会談で、沖縄の施政権を日本へ返還する方向で継続的に検討することが確認されました。
1968年11月には、琉球政府行政主席を住民が直接選ぶ初めての選挙が行われ、日本への早期復帰を掲げた屋良朝苗が当選します。住民が行政の最高責任者を直接選べるようになったことは、沖縄の自治権拡大を象徴する出来事でした。
さらに1969年11月の佐藤首相とニクソン大統領との会談で、1972年中の沖縄返還を目指すことが合意されます。1971年6月17日には沖縄返還協定が署名され、沖縄の行政、法律、通貨、通信、放送などを日本の制度へ移すための準備が本格化しました。
沖縄放送協会についても、復帰後に独立した放送機関として存続させるのではなく、NHKへ引き継ぐ方針が法令によって定められました。
1972年5月15日、NHKへ権利と義務を承継
沖縄返還に備えて制定された「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第38条では、沖縄放送協会が持つ権利と義務を、日本放送協会が承継することが定められました。
そして1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄は日本へ復帰します。同時に沖縄放送協会は独立した法人としての役割を終え、放送業務、施設、資産などがNHKへ引き継がれました。
一般的には「NHKに吸収された」「NHK沖縄放送局へ移行した」と説明されることがあります。ただし、法律上の正確な表現は、沖縄放送協会の権利と義務をNHKが「承継した」というものです。
沖縄放送協会が単に名称をNHKへ変更したわけでも、当初からNHKの一部だったわけでもありません。異なる法制度の下に存在していた公共放送法人が、沖縄の日本復帰に伴ってNHKの放送体制へ組み込まれたのです。
わずか約4年7か月の公共放送が残したもの
沖縄放送協会が存在したのは、1967年10月から1972年5月までの約4年7か月でした。放送機関の歴史としては短い期間ですが、その果たした役割は決して小さくありません。
第一に、宮古・八重山など、それまでテレビを見られなかった地域に放送を届けました。沖縄本島よりも先に先島で放送を始めた事実は、地域間の情報格差解消を優先した公共放送としての姿勢を示しています。
第二に、アメリカ施政権下の沖縄に公共放送制度を築き、復帰後のNHK沖縄放送局へ業務をつなぎました。沖縄独自の制度と日本の制度との間を橋渡しした、移行期の放送機関だったといえます。
第三に、沖縄放送協会の歴史は、放送が政治や社会制度と切り離せないものであることを伝えています。電波を誰が管理するのか、どの法律に基づいて放送するのか、離島を含む住民へどのように情報を届けるのか。これらはすべて、当時の沖縄が置かれていた政治状況と深く結びついていました。
年表で見る沖縄の放送と日本復帰
沖縄放送協会の歴史を理解するためには、テレビ放送だけでなく、戦後のラジオ放送がどのように再建されたのかを知る必要があります。
戦後の沖縄では、米軍向けの放送、住民向けの日本語放送、親子ラジオと呼ばれた有線放送、民間ラジオ、民間テレビ、公共テレビが並行して発達しました。その流れを沖縄の日本復帰まで年表で整理します。
| 年月日 | 沖縄と放送をめぐる主な出来事 |
|---|---|
| 1942年3月19日 | 戦前の日本放送協会沖縄放送局が開局する。呼出符号はJOAP。 |
| 1945年3月 | 沖縄戦を前に空襲などで放送施設が被害を受け、沖縄放送局の機能が停止する。 |
| 1945年4月以降 | アメリカ軍が沖縄へ上陸し、軍政を開始する。沖縄は日本本土とは異なる統治制度の下に置かれる。 |
| 1945年5月15日 | 米軍が軍人向けのAFRSラジオ放送を開始する。英語による米軍関係者向けの放送であり、沖縄住民を主な対象としたものではなかった。 |
| 1950年1月21日 | 琉球米国軍政府の管理下で、沖縄住民向けの日本語ラジオ放送が本格的に始まる。放送局は一般に「琉球放送局」または「琉球の声」と呼ばれ、呼出符号はAKARだった。 |
| 1952年4月1日 | アメリカの統治下で琉球政府が発足する。 |
| 1952年4月28日 | サンフランシスコ平和条約が発効する。日本本土は主権を回復したが、沖縄ではアメリカによる施政が続く。 |
| 1952年頃 | 沖縄各地で「親子ラジオ」が普及し始める。親局でラジオ放送を受信し、有線で家庭や店舗に置かれた子機のスピーカーへ音声を届ける共同聴取方式だった。 |
| 1953年2月1日 | 琉球放送局の呼出符号がAKARからKSARへ変更され、KSARの正式な開局式が行われる。設備の移転や送信出力の増強も進められた。 |
| 1953年2月19日 | 津堅島の学校で親子ラジオの落成式が行われる。この時期、親子ラジオは沖縄本島だけでなく離島や農村地域へも広がっていった。 |
| 1954年 | 琉球放送局の施設と運営が米国民政府の直接管理から琉球大学財団へ移され、民間による商業放送へ移行する準備が進められる。 |
| 1954年9月20日 | 琉球放送株式会社(RBC)が設立される。 |
| 1954年10月1日 | 琉球放送が沖縄初の民間放送としてラジオ放送を開始する。呼出符号は引き続きKSARが使用された。 |
| 1950年代 | 親子ラジオの多くがKSAR、のちの琉球放送の番組を中継する。親局によっては、自治体からのお知らせ、地域の話題、民謡などを独自に放送するところもあり、地域放送に近い役割を果たした。 |
| 1955年9月1日 | 琉球放送が在沖米軍関係者などを対象とする英語ラジオ放送を開始する。呼出符号はKSBK。 |
| 1955年11月25日 | 琉球政府の電波法が公布され、放送を含む無線通信を管理する制度が整えられる。ただし、米国民政府による監督権限は引き続き残された。 |
| 1958年2月 | キリスト教系放送局の英語放送KSABが始まる。通称「極東放送」と呼ばれた。 |
| 1959年3月 | 極東放送が日本語放送KSDXを開始する。 |
| 1959年11月1日 | 沖縄テレビ放送(OTV)がテレビ放送を開始する。戦後の沖縄で一般住民を対象とするテレビ放送が始まる。 |
| 1960年6月1日 | 琉球放送がテレビ放送を開始する。呼出符号はKSAR-TV。これにより琉球放送はラジオとテレビの兼営局となる。 |
| 1960年7月1日 | ラジオ沖縄(ROK)がラジオ放送を開始する。沖縄の日本語ラジオ放送は琉球放送との複数局体制になる。 |
| 1960年代 | テレビや一般家庭用ラジオの普及に伴い、親子ラジオの役割は次第に小さくなる。一方、離島などでは引き続きラジオ番組の中継や地域のお知らせに利用された。 |
| 1964年9月1日 | 日本本土と沖縄を結ぶマイクロウェーブ回線が開通する。本土で制作されたテレビ番組を沖縄へ同時に送ることが可能になる。 |
| 1967年7月6日 | 日本で「宮古群島及び八重山群島におけるテレビジョン放送に必要な設備の譲与に関する法律」が公布・施行される。 |
| 1967年9月19日 | 琉球政府が立法第122号「放送法」を公布する。沖縄放送協会を設立するための法的基盤が整う。 |
| 1967年10月2日 | 沖縄放送協会(OHK)が公共放送法人として正式に発足する。OHKはテレビ放送を目的とした組織であり、ラジオ放送は行わなかった。 |
| 1967年12月22日 | 沖縄放送協会宮古放送局が開局し、宮古地域で公共テレビ放送が始まる。呼出符号はKSDY-TV。 |
| 1967年12月23日 | 沖縄放送協会八重山放送局が開局する。呼出符号はKSGA-TV。 |
| 1968年4月25日 | 日本で「沖縄におけるテレビジョン放送に必要な設備の日本放送協会による設置及び無償貸付けに関する法律」が公布・施行される。NHKによるOHKへの設備支援が可能になる。 |
| 1968年11月 | 琉球政府行政主席を住民が直接選ぶ初めての選挙が行われ、日本への早期復帰を掲げた屋良朝苗が当選する。 |
| 1968年12月22日 | 沖縄本島で沖縄放送協会中央放送局がテレビ放送を開始する。呼出符号はKSGB-TV。 |
| 1969年4月12日 | 沖縄放送協会放送センターの落成式が行われる。 |
| 1969年11月 | 佐藤栄作首相とニクソン大統領による日米首脳会談で、1972年中に沖縄を日本へ返還する方針が示される。 |
| 1971年6月17日 | 日本とアメリカが沖縄返還協定に署名する。正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」。 |
| 1971年12月31日 | 「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」が公布される。同法第38条により、復帰の日に沖縄放送協会の権利と義務をNHKが承継することが定められる。 |
| 1972年3月15日 | 沖縄返還協定の批准書が交換される。 |
| 1972年5月15日 | 沖縄返還協定が発効し、沖縄に対する施政権がアメリカから日本へ返還される。沖縄県が再び設置され、日本の法律や放送制度が適用される。 |
| 1972年5月15日 | 沖縄放送協会の権利と義務がNHKへ承継される。OHK中央放送局はNHK沖縄放送局となり、総合テレビの呼出符号はJOAP-TVとなる。 |
| 1972年5月15日 | 琉球放送も日本の放送制度へ移行し、ラジオとテレビの呼出符号がKSARから日本の呼出符号へ変更される。ラジオはJORRとなる。 |
| 1972年6月25日 | NHK沖縄放送局がラジオ第1放送を約27年ぶりに再開し、ラジオ第2放送も開始する。OHKはラジオを運営していなかったため、NHKラジオはOHKからの承継ではなく、復帰後に改めて整備された。 |
1967年の発足から1972年の日本復帰まで、沖縄放送協会が存在した期間は約4年7か月でした。その短い歴史の中には、戦後沖縄の復興、先島諸島へのテレビ普及、日本本土との結び付きの回復、そして施政権返還という大きな時代の変化が凝縮されています。
まとめ
沖縄放送協会は、アメリカ統治下の沖縄で生まれ、日本復帰と同時に役割を終えた公共放送機関です。
その始まりには、宮古・八重山にもテレビを届けたいという切実な要望がありました。琉球政府の放送法によって設立され、NHKから番組や設備の支援を受けながら、沖縄全域を対象とする公共放送体制を築いていきました。
そして1972年5月15日、日本復帰に伴って権利と義務がNHKへ承継され、現在のNHK沖縄放送局につながっていきます。
沖縄放送協会の歩みは、わずか数年間の放送局史ではありません。戦後の分断、離島の情報格差、自治権拡大への願い、日本復帰に向けた制度移行が重なり合った、沖縄現代史の一断面なのです。
主な参考資料
- 沖縄県公文書館「1959年11月1日 初の住民向けテレビ放送開始」
- 沖縄県公文書館「琉球政府の時代」
- 沖縄県公文書館『研究紀要』第15号
- 外務省外交史料館「沖縄返還協定」
- 『沖縄放送協会史』沖縄放送協会資料保存研究会
- 『NHK沖縄放送局史――NHK・OHK70年のあゆみ』NHK沖縄放送局
- 「沖縄におけるテレビジョン放送に必要な設備の日本放送協会による設置及び無償貸付けに関する法律」
- 「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」
本日も最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました!
SNSでの拡散にもご協力いただけますと大変励みになります!



















コメントを残す