日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史⑦ 〜総集編〜

朝鮮・台湾・中国・樺太・東南アジア・太平洋諸島 放送網の形成と1945年以降の継承史

日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史は、1920年代から1945年にかけて、日本が統治、委任統治、租借、軍事占領など、さまざまな形で関係した地域のラジオ放送をたどってきました。

第一部は朝鮮。

第二部は台湾。

第三部は中国大陸。

第四部は樺太。

第五部は東南アジア。

第六部は太平洋諸島・その他。

地域を変えるたびに見えてきたのは、「日本が関わった放送」と一言で表しても、放送制度も運営主体も技術構成もまったく同じではなかったことです。

朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会がありました。関東州のJQAK大連放送局と満洲国のMTCY新京中央放送局では制度そのものが違います。樺太のJDAK豊原放送局と南洋群島のJRAKパラオ放送局は日本放送協会自身の放送局でした。東南アジアでは、日本放送協会が放送局を直接経営したのではなく、軍政下の放送管理組織へ職員が派遣されました。

そして1945年。

日本側の統治・軍政・放送組織は終わります。

しかし、ラジオ放送そのものが消えたわけではありません。

局舎。

スタジオ。

送信所。

送信機。

アンテナ。

中継回線。

そして、そこで放送を作っていた技術者やアナウンサー。

その多くは新しい管理主体へ渡り、朝鮮半島では南北それぞれの放送へ、台湾では戦後の台湾放送へ、中国大陸では国民政府や中国共産党側の放送へ、東南アジアでは独立後の国営放送へと組み込まれていきました。

つまり1945年は、アジア・太平洋のラジオ放送にとって単なる「終わり」ではありません。

政治体制と放送主体が大きく入れ替わる一方、設備や技術、人材の一部が次の時代へ受け継がれた「巨大な転換点」でもありました。

シリーズ最終回となる今回は、第一部から第六部までを振り返ったうえで、最後に「日本が関係した放送局は戦後どのような道をたどったのか」を地域横断で追います。


第一部 朝鮮編 〜JODK京城中央放送局と朝鮮放送協会〜

1927年に始まったJODK

朝鮮半島における本格的なラジオ放送は、1927年2月16日に京城放送局JODKが放送を開始したことから始まります。

開局当初の代表設備は690kc・1kW。送信機には英国マルコーニ製設備が使われました。京城放送局は1932年に朝鮮放送協会へ改組され、翌1933年には日本語中心の第1放送と朝鮮語中心の第2放送を分離する二重放送へ移行します。

朝鮮半島ではその後、釜山、平壌、清津、咸興、大邱、光州、全州などへ地方局が増設されました。

JODKという一局から始まった放送は、1940年代には朝鮮半島全体を結ぶ放送網へ発展していきます。

50kW級送信設備と二重放送

朝鮮放送史の技術的な特徴の一つが、日本語と朝鮮語を異なる周波数で同時放送した二重放送です。

単一の送信機で言語を時間帯ごとに切り替えるのではなく、主要局では第1放送と第2放送を別々の送信設備から出す構成でした。

京城では放送網の拡大とともに大電力設備も整備され、朝鮮半島における基幹局としての機能が強化されました。地方には小・中出力局を配置し、中央局と地方局を有線回線などで結ぶネットワークが形成されました。

日本本土と朝鮮半島を結んだ中継

朝鮮放送協会の番組は、すべて京城で制作していたわけではありません。

日本放送協会から送られるニュース、講演、音楽、全国番組などを中継する一方、朝鮮語番組、伝統音楽、演芸、教育、地域番組なども制作しました。

日中戦争以降は戦時動員や政策伝達にラジオが積極的に利用され、1940年代になると番組編成にも戦時色が強くなっていきます。

1945年8月15日

1945年8月15日、京城中央放送局からも昭和天皇による戦争終結の放送が中継されました。

しかし、朝鮮放送協会の設備が同日消滅したわけではありません。

南北に分割された朝鮮半島で、この放送網はまったく異なる二つの戦後史へ進むことになります。


第二部 台湾編 〜JFAK台北放送局と台湾放送協会〜

1925年の実験放送からJFAKへ

台湾では1925年、台湾総督府始政30周年記念事業の一環としてラジオ放送の実験が行われました。

その後、1928年に台北放送局JFAKが本放送を開始し、1931年には台湾放送協会が設立されます。

台北だけでなく、台南、台中、嘉義、花蓮港などへ放送網が広がり、日本語と台湾で使用されていた言語による番組が編成されました。戦争末期までに台湾には、日本本土とは異なる独自の放送ネットワークが形成されていました。

台湾の放送史を象徴する民雄送信所

台湾編で技術史上最も注目した設備の一つが、嘉義県民雄に建設された大電力送信施設です。

広い地域へ電波を届ける中波大電力設備だけでなく、中国大陸や東南アジアを意識した放送拠点としても重要でした。

その設備の一部が戦争を越えて使用され、現在まで放送史料として保存されていることは、今回のシリーズの中でも非常に重要な事例です。旧民雄放送所は現在、国家広播文物館として放送設備の保存・公開に利用されています。

台湾と日本本土を結ぶ番組網

台湾でも、日本本土から有線回線や短波などを利用して番組が送られました。

一方、台湾から中国大陸や東南アジア方面を意識した多言語放送も行われました。

この点で台湾は、「日本本土の放送を受け取る地域」であると同時に、「さらに外側へ電波を送り出す拠点」でもありました。

1945年 放送設備は新しい管理主体へ

日本の敗戦後、中央広播事業管理処の接収担当者が台湾へ入り、1945年11月から台湾放送協会の台北、台中、台南、嘉義、花蓮港などの放送設備を引き継ぎました。

台北放送局は「台湾広播電台」となり、旧台湾放送協会の施設を基礎として戦後の台湾放送が始まります。


第三部 中国編 〜JQAK大連・MTCY新京・XGAP北京から上海・香港まで〜

中国のラジオ放送は日本進出以前から存在した

中国編で最も重要だった前提は、中国のラジオ放送が日本によって始められたわけではないという点でした。

上海をはじめ中国各地には1920年代から、中国政府系、地方政府系、外国資本、民間商業など多様な放送局が存在していました。

日本が中国大陸の放送へ本格的に関与する以前から、大都市ではラジオ文化と放送市場が成立していました。

関東州のJQAK大連

中国大陸で日本側が早くから直接運営した放送局がJQAK大連放送局です。

1925年に放送を開始し、1933年の満洲電信電話株式会社成立後は同社の放送網へ組み込まれました。

ただし関東州と満洲国は制度上別の地域です。

JQAKという日本側の呼出符号がそのまま残ったことにも、大連局の成立過程の違いが表れています。

MTCY新京と100kW級長波

満洲国では満洲電信電話株式会社が、電信、電話、無線通信、ラジオ放送を一体的に運営しました。

新京中央放送局MTCYでは中波に加え、180kc・100kW設備の長波放送が整備されました。

主要都市には1kW級、地方には数十W級の局を配置し、長波・中波・短波を組み合わせた大規模ネットワークが形成されました。

XGAP北京100kWと華北広播協会

華北では日本軍の占領後、北京、天津、済南、青島などの放送網が再編されました。

中心となったXGAP北京中央放送局の第1放送は640kc、最終的には100kW級。中国語を大出力、日本語を小出力とする構成は、日本人住民の比率が高かった満洲国の二重放送とは逆の設計思想でした。

南京・上海・漢口

華中では軍による放送管理を経て中国放送協会が成立し、南京XGOA、上海XGOI、漢口XGOWなどを中心とする放送網が形成されました。

上海には日中戦争以前から日本人居留民向けのXQHA大東放送局も存在し、短波による東南アジア方面への放送も行われました。

香港と澳門

香港では英国統治期のGOW、ZBW、ZEKの放送設備が日本軍占領後に接収され、JPHA香港放送局として使用されました。

一方、隣接する澳門は日本軍による直接占領を受けず、Radio Clube de Macauがポルトガル語、中国語・広東語、英語の放送を継続しました。澳門文化局の研究は1941~1945年の澳門放送を、当時の華南で日本側による直接統制を受けなかった放送として位置付けています。


第四部 樺太編 〜JDAK豊原放送局と電力線放送〜

1925年から始まった樺太のラジオ受信

樺太では、日本本土の放送を遠距離受信する時代を経て、1936年に臨時放送局JDAKが登場しました。

その経験を基礎に常設局の建設が進められ、1941年に日本放送協会豊原放送局JDAKが完成します。

620kc・1kWから750kc・50Wへ

豊原放送局は本来620kc・1kWで運用する計画でした。

しかし正式開局直前に太平洋戦争が始まり、電波管制によって750kc・50Wへ大幅減力されます。

さらに1942年には通常の空中放送を停止し、放送用高周波信号を電灯線へ流す「電力線切替放送」へ移行しました。

一般家庭ではラジオ受信機を使用しながら、強い電波を空中へ広く放射しないという、戦時下ならではの特殊な放送方式でした。

1945年8月23日まで続いた日本側放送

8月15日に豊原からも終戦の放送が流れましたが、南樺太では戦闘が続きました。

ソ連軍が豊原へ進駐したのは8月23日。日本側の放送もこの段階で停止し、放送施設はソ連側の管理へ移りました。


第五部 東南アジア編 〜マニラ・昭南・ジャワ・ラングーンの南方放送〜

「海外のNHK」ではなかった南方放送

東南アジア編では、朝鮮・台湾とはまったく違う制度が見えてきました。

日本軍占領下のフィリピン、マレー・シンガポール、蘭領東印度、ビルマなどでは軍政機関の下に放送管理組織が作られ、日本放送協会から派遣された職員が軍属などの身分で実務へ参加しました。

日本人派遣職員だけで放送していたわけでもありません。

多数の現地アナウンサー、技術者、音楽家、通訳などが放送を支えていました。

KZRHマニラ

フィリピンには日本軍進攻以前から商業ラジオが発達していました。

日本軍は既存設備を復旧してKZRHを再開し、後にPIAMなどの呼出符号を使用しました。

英語、タガログ語、スペイン語などのニュース、音楽、教育、娯楽、軍政情報、対敵放送が編成されました。

戦争末期には設備の多くが戦闘で失われています。

昭南放送局

シンガポールのカルデコット・ヒルにあった英国側放送施設は日本軍占領後も利用され、Radio Shonanとして放送を行いました。

日本語だけではなく、マレー語、中国語系言語、タミル語など多言語番組が編成されました。カルデコット・ヒルの施設は戦闘を生き残り、戦後もシンガポール放送史の中心地となります。

ジャワ・スマトラ

蘭領東印度ではNIROMや現地系放送組織の施設が接収され、ジャカルタ、バンドン、スラバヤなどに放送局が置かれました。

バンドン5kW、ジャカルタ1kW、地方25~500W級など、既存設備と地域条件に応じてさまざまな出力が使用されました。

この局網とそこで働いた人々が、わずか数週間後に独立後インドネシアの放送史へつながることになります。

XYZラングーン

ビルマでは英国側の放送設備が撤退時に破壊され、日本側が残存設備を修復してラングーンから放送しました。

戦争末期に日本側放送は崩壊しますが、戦後は英国側による放送が再建され、1946年にBurma Broadcasting Serviceへ発展します。


第六部 太平洋諸島・その他編 〜JRAKパラオと軍用無線網〜

南洋群島唯一の本格的な日本放送協会局

南洋群島では1930年代、サイパン、パラオ、トラック、ポナペなどへの放送局設置が検討されました。

しかし日本放送協会の常設一般放送局として実現した中心的存在は、1941年9月24日開局のJRAKパラオ放送局でした。

短波10kW

JRAKの代表的な周波数は、

6,090kc
9,565kc
11,740kc

送信出力10kW。

広大な海域に島々が分散する南洋群島では、中波の地表波より短波の電離層伝搬を利用することに技術的な合理性がありました。

JRAKはパラオの地域放送局であると同時に、日本本土と太平洋地域を結ぶ中継拠点でもありました。

1944年に消えたJRAK

パラオ放送局は1945年8月まで放送していたわけではありません。

1944年7月の空襲で送信機能を失い、8月に閉鎖されました。

一方、サイパン、トラック、ラバウル、グアム、ウェーク、アッツ、キスカなどには多数の日本軍無線施設が存在しましたが、一般向け番組を放送する局と軍用通信局を区別する必要があります。

「日本軍がいた島=日本のラジオ放送局があった島」ではありません。


六地域の放送技術を比較すると見えてくるもの

第一部から第六部までの代表的な設備を並べると、日本が関わった放送に一つの統一規格があったわけではないことがよく分かります。

地域代表局特徴的な設備
朝鮮JODK京城中波・二重放送・大電力化
台湾JFAK台北・民雄中波・大電力送信・対外放送
中国MTCY新京180kHz長波100kW設備・中波・短波
中国XGAP北京640kHz中波100kW
樺太JDAK豊原1kW設備から50Wへ減力・電力線放送
東南アジアマカッサルなど25W級から10kW級・短波・有線・街頭放送
太平洋諸島JRAKパラオ短波10kW

使用された技術は、政治制度だけでなく地理条件、人口、既存設備、電源事情、戦況、番組中継方法によって決まっていました。中国東北部では長波100kW、北京では中波100kW、島嶼地域のパラオでは短波10kW、電波を空中へ出すこと自体が問題となった豊原では電力線放送が選ばれています。


1945年以降編 〜日本が関係した放送局はどのような道をたどったのか〜

ここからが今回の総集編で最も重要な部分です。

1945年に日本側の放送組織が消滅・撤退したあと、放送施設はどうなったのでしょうか。

結論からいえば、すべて同じ運命をたどったわけではありません。

そのまま後継局に使われた設備。

一度軍や占領当局が管理した後、新しい国営放送へ渡った設備。

内戦の中で所有者が何度も変わった設備。

戦闘で失われた設備。

局舎だけが残った設備。

そして、現在では文化財・博物館として保存されている設備。

1945年以降の歴史は、戦前以上に多様です。


朝鮮半島の戦後 〜JODKから南北二つの放送へ〜

京城中央放送局は米軍政下へ

日本の降伏後、京城中央放送局は1945年9月に米軍側へ接収され、米軍政庁公報部の管理下へ入りました。

韓国学中央研究院は、旧京城中央放送局がその後、ソウル中央放送局へ改称され、現在のKBSにつながったと整理しています。

ここで重要なのは、

JODKという日本側呼出符号
朝鮮放送協会という法人
日本側の放送制度

は終わったものの、ソウルに存在した放送設備と放送機能そのものは継続利用されたことです。

1947年 JODKからHLへ

1947年、国際電気通信連合の国際呼出符号制度で朝鮮側へ「HL」が割り当てられました。

KBSの公式沿革も、

1927年 JODK放送開始
1947年 HL呼出符号割当・ソウル中央放送局
1948年 国営放送開始
1973年 韓国放送公社発足

という系譜を示しています。

つまりJODKという呼出符号は姿を消しましたが、「京城からソウルへ」という放送拠点としての連続性は残りました。

現在のKBSが自らの放送史を1927年から数えていることも、この設備・事業史上の連続性を示しています。

北側の旧地方局は北朝鮮放送へ

朝鮮半島北部ではソ連軍の進駐後、平壌など旧朝鮮放送協会系の設備が新しい放送体制へ組み込まれていきました。

韓国民族文化大百科事典によれば、北朝鮮では1945年10月14日を放送記念日とし、その後1946年に「平壌放送」、1948年に「北朝鮮中央放送」を経て現在の朝鮮中央放送へつながっています。

結果として、日本統治期には一つの朝鮮放送協会網だった設備群が、1945年以降は南北それぞれ別の放送制度へ分かれました。

放送技術史として見ると、ここは非常に大きな分岐点です。


台湾の戦後 〜台湾放送協会の設備は台湾広播電台へ〜

1945年秋 台湾放送協会を接収

1945年10月、中央広播事業管理処の接収担当者が台湾へ派遣され、11月から台北、台中、台南、嘉義、花蓮港など旧台湾放送協会の設備が順次引き継がれました。

旧台北放送局は「台湾広播電台」と改称されます。

日本側のJFAKなどの呼出符号は使用されなくなりましたが、送信所、スタジオ、回線などの物理的な基盤は戦後の放送再建に利用されました。

日本時代の設備を使いながら番組制度は大きく変化

戦後直後の台湾では、日本語中心だった放送から中国語を中心とする新しい編成への移行が進みます。

1945年10月末には旧設備を利用して通常放送が再開され、中央台の番組中継も行われるようになりました。

ここでも、

物理的設備は継承
運営主体と放送内容は転換

という構図が見られます。

台湾広播電台から中国広播公司へ

中央広播事業管理処は戦後に中国広播公司へ改組され、1949年の中華民国政府台湾移転後には、台湾の放送組織も再編されていきました。1951年前後には台湾広播電台の組織・放送網が中国広播公司側へ組み込まれていきます。

民雄送信所は戦後も大電力放送へ

旧民雄放送所は特に興味深い例です。

日本統治期に建設された大電力送信施設は戦後も利用され、中国大陸向け放送などの重要拠点となりました。

1954年には設備増強と定向性アンテナの整備が行われ、その後も中央広播電台の送信基地として長く使用されました。現在は国家広播文物館として、台湾の放送技術史を伝える施設になっています。

送信所が、

戦前の台湾放送協会
→ 戦後の台湾広播電台
→ 中国広播公司・中央広播電台系
→ 放送文化財

と役割を変えながら残った、シリーズを象徴する事例の一つです。


中国大陸の戦後 〜一度の接収では終わらなかった放送局〜

中国編の戦後史はシリーズ中で最も複雑です。

日本の敗戦。

ソ連軍の中国東北部進駐。

国民政府による接収。

中国共産党側による接収。

その後の国共内戦。

1949年の中華人民共和国成立。

同じ送信所が数年間で複数回、管理主体を変えた例があります。

JQAK大連

大連では1945年8月24日にソ連軍が旧大連中央放送局を接収しました。

その後、中国共産党側が施設を引き継ぎ、1946年には旧JQAKの施設を基礎に大連側の放送が始まっています。後には大連人民広播電台などへつながっていきました。

つまりJQAKは「放送局として廃墟になった」のではなく、局名と運営主体を変えながら戦後大連の放送に利用されました。

MTCY新京

新京、現在の長春でも放送設備は戦後利用されました。

旧MTCYは1945年9月、中国共産党側によって接収され、長春広播電台として放送を行ったとする記録があります。

ただし中国東北部では、その後国共内戦によって長春の支配主体そのものが変化しました。

したがって、

MTCY
→ 1945年に単純に一つの戦後放送局へ移行
→ 現在まで一直線

と理解するのは正確ではありません。

設備は利用されましたが、戦後数年間に軍事・政治情勢によって運用主体が何度も変化しています。

100kW長波設備の運命

特に気になるのが新京の180kHz・100kW級長波設備です。

戦後、ソ連側の管理下で利用されたとする記録があり、その後の戦乱や設備移転・破損などを経て、満洲電電時代と同じ姿で放送設備として長期間継続したわけではありません。

これは「局舎や送信所を接収した=戦前設備がそのまま現在まで動いた」わけではない例です。

XGAP北京

北京中央放送局XGAPは日本の敗戦後、国民政府側へ接収され「北平広播電台」へ戻りました。

1949年1月31日には中国人民解放軍側が北平広播電台を接収し、2月2日に「北平新華広播電台」として放送を開始しました。

北京の100kW級中波設備が置かれた放送拠点は、

日本占領期
→ 国民政府
→ 中国共産党政権

という三つの段階を経験したことになります。

南京・上海など

華中の南京、上海、漢口などの局も、日本の敗戦後は国民政府側が接収しました。

その後1949年前後に各都市が中国共産党側の支配下へ入ると、放送設備も新しい放送制度へ組み込まれていきます。日本占領地域の放送局の多くは、1945年の接収後に国民政府放送となり、その後の内戦を経て中華人民共和国の放送網へ編入されました。

ここでは「戦後」という一語の中に、

1945~1949年の中華民国期
1949年以降の中華人民共和国期

という二つの段階があることに注意が必要です。


香港と澳門の戦後 〜日本占領前の放送制度へ戻った香港〜

JPHAは消えZBW系統が復活

香港では日本の敗戦によってJPHAの日本側運営が終了しました。

英国側による行政が復活すると放送も再び英国側の管理へ戻り、1948年には「Radio Hong Kong」の名称が使用されるようになります。

この組織は後にRadio Television Hong Kong、現在のRTHKへ発展しました。

香港は、

GOW
→ ZBW・ZEK
→ JPHA
→ 英国側放送復活
→ Radio Hong Kong
→ RTHK

という非常に分かりやすい「中断と復帰」の系譜を持っています。

澳門には「接収からの復帰」がない

澳門は日本軍による直接放送管理を受けなかったため、香港とは異なります。

1941年に成立したRadio Clube de Macauは戦時中も放送を続け、戦後も澳門の放送史が継続しました。その後1952年にはRadio Vila Verdeも登場しています。

つまり澳門だけは、「日本側の局を誰かが接収した」という戦後史そのものがありません。


樺太の戦後 〜JDAKはソ連の放送施設へ〜

豊原放送局はソ連側へ接収

南樺太では1945年8月、ソ連軍が豊原へ進駐し、JDAK豊原放送局も日本側の管理を離れました。

日本放送協会豊原放送局としての歴史はここで完全に終了します。

旧局舎・施設はその後ソ連側の放送施設として使用されたとする記録があります。

朝鮮、台湾、中国と違い、「JDAKの後継局」という明確な呼出符号系譜が日本側資料から容易に追える形ではありません。

政治体制も言語も放送制度も完全にソ連側へ転換しました。

職員の戦後も特殊だった

設備だけでなく、豊原放送局の職員も特殊な戦後を経験しました。

アナウンサーだった石坂幸子さんはハバロフスクへ移り、戦後直後のモスクワ放送系日本語放送に携わりました。

早稲田大学の島田顕氏による研究では、石坂さんがハバロフスク放送局日本語課最初の女性アナウンサーとなった経緯が検証されています。

「日本の放送局員が、敗戦後に旧敵国側の日本語放送に携わる」という、他地域ではあまり見られない経歴です。

豊原からユジノサハリンスクへ

豊原はソ連側によってユジノサハリンスクへ改称されました。

旧JDAKも「日本の放送局」として再出発したのではなく、サハリンのソ連放送体制の中へ吸収されたと考えるのが適切です。


東南アジアの戦後 〜接収した放送局が独立国家の放送へ〜

東南アジアでは、1945年の放送施設の移行がその後の独立運動や国家形成と密接に結び付きました。

ここはシリーズ全体でも非常に重要です。

インドネシア Hoso KyokuからRRIへ

最も象徴的なのがインドネシアです。

1945年8月19日頃までに日本軍政下のHoso Kyoku系放送は停止しました。

しかし、そこで放送実務に携わっていたインドネシア人放送関係者たちは、設備をそのまま眠らせませんでした。

9月11日、ジャカルタ、バンドン、ジョクジャカルタ、スマランなど旧Hoso Kyoku系の関係者が集まり、Radio Republik Indonesia、RRIを設立します。RRI自身も、日本軍政期のHoso Kyokuで働いた放送人が中心となって1945年9月11日にRRIを創設した歴史を伝えています。

これはシリーズの中でも最も明確な「人的・設備的継承」の一例です。

日本軍政という制度は消滅しました。

しかし、

放送設備
放送技術
現地スタッフ
番組制作経験

は、新しく独立を宣言したインドネシア共和国の放送へ引き継がれました。

シンガポール Radio ShonanからRadio Malayaへ

シンガポールでは、カルデコット・ヒルの放送施設が戦争を生き残りました。

1945年9月、日本側のRadio Shonanが終わると英国側が直ちに放送施設を取り戻し、英国軍政下の放送を再開しました。

1946年4月には民政へ移りRadio Malayaとなります。

その後1957年にRadio Singapore、1965年の独立後にはRadio Television Singaporeへ発展し、現在のシンガポール放送史へつながっています。

ここでも興味深いのは「同じ場所」が使われ続けたことです。

英国放送
→ 日本占領期放送
→ 英国放送復活
→ 独立後シンガポール放送

カルデコット・ヒルは、政治体制が何度も変わりながら放送拠点として残りました。

フィリピン KZRHからDZRHへ

マニラのKZRHは日本占領期に接収され、PIAMとして使用されました。

戦争末期には施設が大きな被害を受けましたが、戦後、元の民間放送関係者らによって再建され、1946年7月にKZRHとして放送を再開します。

その後、フィリピンの国際呼出符号体系変更によりKZRHはDZRHとなりました。

つまりここでは、

戦前の民間局KZRH
→ 日本軍政下KZRH・PIAM
→ 戦後KZRH復活
→ DZRH

という形で、占領期を挟みながら戦前の放送事業そのものが復活しました。

ビルマ 日本側XYZの終焉とBurma Broadcasting Service

ラングーンでは日本側が使用した放送設備を撤退時に破壊したため、戦前施設がそのまま完全な形で戦後へ渡ったわけではありません。

英国側は1945年にラングーン放送を再建し、1946年2月15日にBurma Broadcasting Serviceを正式に発足させました。

現在のMyanmar Radio and Televisionは、この1946年を自らの放送史の重要な起点としています。

ここでは設備そのものより「ラングーンを国家放送の中心とする構造」が戦後へ引き継がれたと見る方が適切です。


太平洋諸島の戦後 〜JRAKには直接的な後継局がなかった〜

JRAKは終戦以前に消滅していた

パラオ放送局JRAKは、1945年の敗戦によって接収された局ではありません。

1944年7月の米軍空襲で機能を失い、8月に日本放送協会の放送局として閉鎖されていました。

したがって、

JRAK
→ 1945年に米軍が接収
→ そのまま別名で放送

という直接的な継承関係はありません。

戦後パラオには別系統の放送が成立

戦後のパラオは米国の信託統治下へ入り、新しい放送制度が構築されました。

現在のパラオには政府系放送T8AA「Eco Paradise」などがありますが、これは旧JRAKが名称を変えながら存続した局ではありません。JRAKは戦争で途絶え、その後に別の制度・設備としてラジオ放送が再建されたと整理する方が正確です。

この点は、旧設備を利用した台湾やシンガポールとは明確に違います。


戦後の継承を四つの型に分ける

第一部から第六部までの局を戦後の運命という視点から見ると、おおむね四つの型に整理できます。

継承の型代表例特徴
設備と放送機能が新組織へ継承台湾・中国・朝鮮の一部旧送信所や局舎を利用して新しい放送を開始
戦前の放送事業が占領期を挟んで復活香港・フィリピン・シンガポール日本管理前の組織・制度へ回帰または再建
設備・人材が新国家の放送へ転用インドネシア日本軍政期の放送経験が独立後RRIへ接続
放送局そのものが消滅JRAKパラオなど戦災で失われ直接的な後継局を持たない

この分類からも、1945年を境に「日本の放送局が一斉に廃止され、ゼロから各国の放送が始まった」という理解では不十分であることが分かります。台湾では旧放送所が戦後も使用され、ソウルでは旧京城中央放送局がKBSにつながり、インドネシアではHoso Kyoku経験者がRRIを創設しています。一方、JRAKのように物理的連続性そのものが断たれた局もありました。


コールサインは消えても設備は残った

無線という視点から見ると、戦後の変化を最も端的に表しているのがコールサインです。

JODK。

JFAK。

JQAK。

MTCY。

XGAP。

JDAK。

JRAK。

これらの多くは1945年前後に姿を消しました。

しかし、コールサインの消滅と送信設備の消滅は同じではありません。

JODKの設備はソウルの新しい放送へ。

台湾放送協会の送信設備は台湾広播電台へ。

JQAKは大連の戦後放送へ。

XGAPは北平、北京の放送へ。

日本軍政期のインドネシア放送施設はRRIへ。

コールサインという電波上の「名前」は消えても、送信機や鉄塔、局舎という物理的なインフラが次の放送を支えました。

これは放送史を局名だけで追っていては見えにくい部分です。


技術者とアナウンサーも「戦後」をつないだ

設備だけでなく、人間にも連続性がありました。

日本側職員の多くは引き揚げました。

しかし、各地で日本統治・占領期に放送技術を身に付けた現地の技術者、アナウンサー、制作担当者は、その後の放送再建を担いました。

特にインドネシアのRRI成立は、その事実をよく示しています。旧Hoso Kyokuの関係者が1945年9月11日に新しい国営放送を組織しました。

台湾でも旧設備の運用には技術の引き継ぎが必要でした。

中国東北部でも、接収した送信設備を動かすには電源、送信管、変調器、アンテナ整合、保守といった専門技術が欠かせません。

放送の歴史は建物だけではなく、「その設備を動かせる人」の歴史でもあります。


1945年は放送技術の断絶点ではなく転換点だった

このシリーズを第一部から調べ続けてきて、最も強く感じるのはこの点です。

1945年は政治制度としては非常に大きな断絶です。

日本の統治。

委任統治。

租借。

軍政。

それらは終わりました。

一方、放送技術は必ずしも断絶しませんでした。

放送用の建物は使える。

送信機も修理すれば使える。

アンテナ塔も残っている。

中継線も残っている。

受信機も社会に普及している。

そして、その技術を知る人がいる。

新しい政府や占領当局、独立国家にとって、それらをすべて廃棄し一から放送網を作り直す必要はありません。

むしろ接収した設備を使い、できるだけ早く自分たちの放送を始めることに大きな意味がありました。

ラジオは新聞以上に早く、不特定多数へ同時に情報を届けられるからです。

戦前・戦中に情報統制や政策伝達へ使われた設備が、戦後には独立宣言、新政府の政策、新しい国家のニュースを伝える設備へ変わる。

同じ送信機から、数か月前とはまったく違う政治的メッセージが流れる。

これほど放送というメディアの性質を象徴する出来事はないかもしれません。


現在まで残る「放送の痕跡」

戦前・戦中の放送施設のすべてが失われたわけでもありません。

台湾では旧台北放送局、旧台中放送局、旧民雄放送所などが現存しています。民雄の施設は国家広播文物館となり、旧送信設備を含む貴重な放送史料が保存されています。

大連でも旧JQAK大連放送局の建物が残り、戦後長く放送関係施設として利用されました。

シンガポールのカルデコット・ヒルも、英国統治、日本占領、戦後英国統治、独立後シンガポールという複数の時代を越えて放送の中心地であり続けました。

一方でJRAKパラオのように、戦争そのものによって放送施設が失われた例もあります。

「建物が残っているかどうか」も、その地域が経験した戦争と戦後を映しています。


六つの地域史を通して見えたラジオ放送の姿

日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史を、第一部から第六部まで追ってきました。

朝鮮では二重放送と半島全域を結ぶ放送網。

台湾では島内放送と中国大陸・東南アジアを意識した大電力・対外放送。

中国大陸では長波100kW、中波100kW、地方数十W、短波を組み合わせた巨大ネットワーク。

樺太では戦時電波管制による電力線放送。

東南アジアでは既存局を利用した多言語・軍政下の放送。

太平洋諸島ではJRAKが短波によって島々を結ぶ放送を試みました。

同じ時代でも、これほど放送方式が違います。

そこに共通していたのは、ラジオが単なる娯楽機器ではなかったことです。

ニュースを伝える。

災害や気象を伝える。

音楽や演芸を家庭へ届ける。

学校教育を補う。

言語を教える。

政府の政策を伝える。

戦時には動員や宣伝に使う。

敵側へ向けて放送する。

そして戦争が終われば、新しい政権や国家が自らの情報を国民へ届ける。

ラジオは、その時代の政治、社会、文化、技術が交差する場所でした。

だからこそ、その歴史を「日本が近代的な放送設備を作った」という一方向の評価だけで語ることも、「戦時宣伝の道具だった」という一面だけで終わらせることも適切ではありません。

設備には技術史としての価値があります。

番組には文化史としての価値があります。

一方、その設備と番組が統治や軍政、戦争の中で利用された事実もあります。

さらに、その施設の多くを1945年以降に受け継いだのは、現在の韓国、台湾、中国、インドネシア、シンガポールなど、それぞれの地域の放送関係者でした。

複数の側面を切り離さずに記録することが、このシリーズで目指してきた放送史です。


日本の放送史だけでは終わらない

第一部を始めた当初は、「海外に存在した日本関係のラジオ局」を調べるシリーズでした。

しかし六つの地域を追うと、その枠だけでは収まらないことが分かります。

JODKを調べればKBSへつながります。

JFAKを追えば戦後台湾の放送と中央広播電台へつながります。

MTCY、JQAK、XGAPを追えば中国東北部や北京の戦後放送へつながります。

日本軍政期のジャワ放送を追えばRRIの誕生へつながります。

昭南放送局を追えば現在のシンガポール放送へつながります。

つまり、「日本が関わった放送局の歴史」を最後まで追うと、それは必然的に現在のアジア・太平洋諸国の放送史へ接続します。

1945年でページを閉じてしまえば、この重要な連続性を見ることができません。

送信機から出る電波には国境線が見えません。

そして送信所そのものも、政権が変わったからといって翌日に消えるわけではありません。

電波と設備の歴史を追うことで、政治史だけでは見えにくい「1945年の前と後」がつながって見えてきます。

これが全七回を通して、このシリーズで最も伝えたかったことの一つです。

資料を読む際に注意したい点

戦前・戦中・戦後を連続して調べる際には、「後継局」という言葉を慎重に使う必要があります。

旧局舎や送信機を使用したからといって、戦前の放送組織と戦後の放送組織が法的・制度的に同じ組織であるとは限りません。

たとえばJODKの設備が戦後ソウルの放送へ使われ、現在のKBSが放送史を1927年から数えていても、朝鮮放送協会と現在のKBSが同一法人という意味ではありません。

MTCYから長春の放送へ移行したケースも、設備利用の連続性と政治組織の連続性は別問題です。

一方、フィリピンのKZRHのように、戦前の民間局が日本軍占領を挟んで戦後再建され、DZRHとして事業上の系譜を現在まで残す例もあります。

本稿では「施設・技術の継承」と「組織の継承」を可能な限り区別しています。

また中国大陸については、1945年から1949年まで国共内戦による管理主体の変化が激しく、放送局ごとの接収時期や設備の移動について資料差があります。確認できない部分を現在の放送局へ単純に結び付けないよう注意が必要です。

参照資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です