日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史⑥ 〜太平洋諸島・その他編〜

JRAKパラオ放送局と太平洋諸島のラジオ放送〜1930年代から1945年までの放送網と技術史〜

今回は「日本が関わったアジア・太平洋地域の ラジオ放送史」の第6回、太平洋諸島とその他編です。

今回の中心となるのは南洋群島です。

第一次世界大戦後、日本は国際連盟の委任統治制度のもとで、現在のパラオ共和国、北マリアナ諸島、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島にまたがる広大な島嶼地域を統治しました。1922年にはパラオ諸島コロール島に南洋庁が置かれ、サイパン、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートの6支庁が設けられています。

その南洋群島で、日本放送協会が正式な放送局として開設したのがJRAKパラオ放送局でした。

1941年9月24日開局。

短波10kW。

6,090kc、9,565kc、11,740kc。

これまで取り上げてきたJODK京城、JFAK台北、JDAK豊原などが中波を中心としていたのに対し、JRAKは広大な海域に島々が点在する地理条件を反映して、短波を主体とする非常に特徴的な放送局でした。日本放送協会総合放送文化研究所は、1972年に506ページに及ぶ『パラオ放送局』を放送史料集として刊行しています。

一方、太平洋戦争が始まると、日本軍はグアム、ウェーク島、ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島、ナウル、アリューシャン列島などへも進出しました。

これらの地域には多数の無線施設がありました。

しかし、ここで注意しなければならないのが「無線局」と「ラジオ放送局」の違いです。

軍令通信、航空無線、艦船通信、気象通信、方向探知、傍受施設などもすべて電波を使用しますが、不特定多数の聴取者にニュース、音楽、演芸などの番組を届けるラジオ放送とは目的も運用方法も異なります。

今回の第六部では、後世に「放送局」と呼ばれることがある施設についても、一般向け放送を確認できない場合は無理に放送局として数えません。

この区別こそ、太平洋諸島の放送史を技術史として正確に整理するうえで重要だと考えています。

太平洋諸島・その他編を読む前に 〜南洋群島と占領地は同じではない〜

南洋群島は太平洋戦争で獲得した占領地ではなかった

南洋群島は、グアムやウェーク島のように1941年以降の軍事作戦によって日本が占領した地域ではありません。

第一次世界大戦中の1914年、日本海軍は当時ドイツ領だった赤道以北のミクロネシア諸島を占領しました。その後、国際連盟の委任統治制度によって日本が統治を担当し、1922年4月1日に南洋庁が発足しています。

当初は、

サイパン支庁
パラオ支庁
ヤップ支庁
トラック支庁
ポナペ支庁
ヤルート支庁

という6支庁体制でした。

1943年11月には戦時行政の簡素化によって、北部支庁、東部支庁、西部支庁の3支庁へ再編されています。

現在の国・地域に置き換えると、

パラオ共和国
ミクロネシア連邦
北マリアナ諸島
マーシャル諸島

にまたがる非常に広大な海域です。

東西約5,000kmにも及ぶ島嶼地域を、一つの通常の中波放送局だけでカバーすることは現実的ではありませんでした。

この地理条件が、後のJRAKを考える重要な前提になります。

1930年代には家庭でラジオを聴く人もいた

JRAK開局以前の南洋群島にラジオがなかったわけではありません。

南洋庁公報には1933年の段階で「聴取無線電話施設許可」「聴取無線電話施設者異動」といった記録が残されています。つまり島内にはすでにラジオ受信機を設置し、遠距離の放送を受信する人々がいました。

しかし、南洋群島には常設の地域向け放送局がありません。

日本本土などから届く短波や、条件の良い時間帯に届く遠距離放送を受信することになります。

人口の増加や島内行政の発展とともに、南洋群島自身の放送設備を整備する必要性が議論されるようになりました。

南洋群島編 〜JRAKパラオ放送局の誕生〜

1935年 サイパンまたはパラオに放送局を

本格的な放送局建設構想は1930年代半ばに具体化します。

1934年、政府は南洋群島開発調査委員会を設置しました。

同委員会が1935年にまとめた答申には、放送について「サイパン又ハパラオニ相当規模ノ放送局ヲ新設スルヲ要ス」とする提言が盛り込まれています。駒澤大学の研究資料にも、この原文が確認できます。

当初からパラオ一局だけが構想されていたわけではありません。

南洋庁側では、

パラオ
サイパン
トラック
ポナペ

などを対象にした放送設備の配置が検討されました。

つまり構想段階では、主要島ごとに中波局を置いて島内・周辺地域をカバーする「複数局方式」も考えられていたことになります。

ところが、予算や設備整備の問題から計画は縮小・変更されました。

最終的に実現した常設放送局がパラオでした。

なぜパラオが選ばれたのか

パラオには南洋庁本庁が置かれ、南洋群島行政の中心地となっていました。

さらに、日本本土と南洋群島を結ぶ電気通信上の拠点でもありました。南洋群島では放送だけでなく、電信、無線電話、海運、気象通信などを一体的に整備する必要があり、パラオはその中核となる条件を備えていました。

1938年頃から日本本土とパラオを結ぶ無線電話設備の整備が具体化し、放送についても同じ短波設備を活用する方針が採られます。

ここがJRAK最大の特徴の一つです。

単独の「放送専用送信所」を一から作るのではなく、日本本土との無線電話通信設備と放送設備を組み合わせたのです。

1941年 日本本土とパラオの無線電話が開通

パラオの短波施設は1941年春までに整備され、同年5月には日本本土とパラオ間の無線電話業務が始まりました。

そして同年9月24日、日本放送協会パラオ放送局が正式に放送を開始します。呼出符号はJRAKでした。

太平洋戦争開戦は12月8日です。

つまりJRAKは開戦後に急造された軍政放送局ではありません。

正式開局は開戦の約2か月半前でした。

これは第五部のマニラ、昭南、ジャワ、ラングーンなどとは大きく異なる点です。

日本放送協会本部の直轄局

JRAKは日本軍の放送管理局ではなく、日本放送協会の放送局でした。

朝鮮には朝鮮放送協会。

台湾には台湾放送協会。

中国東北部には満洲電信電話。

東南アジア占領地には軍政下の放送管理局。

それぞれ異なる組織が放送を担っていました。

パラオは日本放送協会本部の直轄局です。

制度上は第五部で扱った「南方占領地放送」より、むしろ第四部のJDAK豊原放送局に近い性格を持っていました。

JRAKパラオ放送局の送信設備

短波3周波数・10kW

JRAKの代表的な設備は次のように整理できます。

項目内容
局名日本放送協会パラオ放送局
呼出符号JRAK
所在地域南洋群島パラオ諸島
正式開局1941年9月24日
放送方式短波
周波数6,090kc・9,565kc・11,740kc
送信出力10kW
運営主体社団法人日本放送協会
日本側放送停止1944年7月
閉鎖1944年8月

旧稿でも、この3周波数・10kWの設備として整理していました。 公開されている放送史資料でも同じ周波数と出力が確認できます。

なお、3周波数を常時同時に3波で送信していたという意味ではありません。

短波は時間帯や季節によって電離層伝搬の状態が変化するため、目的地域へ良好に届く周波数を選択することが重要です。

6MHz帯。

9MHz帯。

11MHz帯。

周波数帯を複数用意することによって、時間帯や伝搬状態に応じて使い分けられる構成でした。

なぜ中波ではなく短波だったのか

ここはJRAKの技術史で最も重要な部分です。

朝鮮半島のような連続した陸地なら、中央局と複数の中波地方局を配置できます。

台湾でも台北、台中、台南、嘉義、花蓮港などへ送信局を配置しました。

南洋群島は違います。

サイパンからパラオ。

パラオからトラック。

トラックからポナペ。

さらにマーシャル諸島。

それぞれの間には数百kmから1,000kmを超える海があります。

中波の地表波によるサービスエリアを連続させることは困難です。

短波なら電離層反射を利用して海を越え、数百kmから数千km離れた地域へ電波を届けられます。

つまりJRAKの短波10kWという設備は、単なる「海外向け短波局」ではありません。

島々が点在する南洋群島そのものを放送区域として成立させるための技術的選択でもありました。

JRAKでは何を放送していたのか

日本本土からの中継が中心

パラオで一日中独自番組を制作していたわけではありません。

JRAKは、日本本土から短波で送られてくる番組を受信し、パラオから再び短波で中継する役割を大きく担っていました。

当時の「東亜中継放送」を中心に、日本放送協会の番組を南洋群島へ届けます。海外向けの「ラジオ東京」の一部番組を中継した記録もあります。

概念的には、

東京

短波

パラオ受信設備

JRAK

短波

南洋群島・周辺海域

というネットワークです。

現在の放送でいえば、パラオは「地域局」であると同時に「中継局」でもありました。

パラオ独自の番組もあった

中継だけではなく、パラオからのローカル番組も制作されました。

南洋群島の行政情報、地域向けの告知、気象、文化関係番組などを織り交ぜることで、単なる東京番組の再送信局ではない役割も担っていました。パラオ放送局の詳細については、日本放送協会が編纂した『パラオ放送局』に年表・番組・関係者記録が集成されています。

南洋群島では、日本人住民だけでなく島々の住民も生活していました。

放送を行政情報の伝達手段として考えるなら、中央番組だけでなく地域情報が必要になります。

この「中央中継+現地制作」という構造は、これまで取り上げてきた朝鮮、台湾、満洲、東南アジアにも共通しています。

2kW送信機を増設する計画もあった

無線電話と放送が同じ設備を使う問題

JRAKの短波10kW設備は、もともと日本本土との無線電話設備とも関係していました。

ところが戦争が始まると、通信量も放送需要も増えます。

同じ設備を通信と放送の双方で使えば、当然ながら運用上の制約が発生します。

そこで1942年には、新たに2kW級短波無線電話装置を増設し、既存10kW設備を放送に重点的に使用できるようにする計画が進められました。

送信機はパラオへ届かなかった

ところが、この増設計画は実現しませんでした。

1943年、増設用の送信機を輸送中に船が失われ、機材も海没したとされています。

ここにも戦時期の放送設備整備の難しさが現れています。

設計図や予算があっても、

送信管。

変圧器。

発電設備。

アンテナ資材。

交換部品。

それらを海上輸送できなければ放送局は拡張できません。

1943年以降の太平洋では、日本側の海上輸送そのものが次第に困難になっていきました。

サイパン・トラック・ポナペなどに放送局はあったのか

「計画された局」と「実際に開局した局」を分ける

南洋群島の放送史で特に混乱しやすいところです。

1930年代には、

サイパン
パラオ
トラック
ポナペ

などへの放送局整備が検討されていました。南洋群島開発調査委員会の答申にもサイパンまたはパラオへの放送局設置が盛り込まれています。

しかし、計画が存在したことと、実際に常設放送局が開局したことは同じではありません。

現在確認できる日本放送協会の正式な南洋群島常設放送局はJRAKパラオ放送局です。

サイパン放送局。

トラック放送局。

ポナペ放送局。

といった日本放送協会の常設一般放送局が、JRAKと同様の形で正式開局したことを示す十分な史料は確認できません。

旧稿でも、この点を「一般放送局の設置計画は存在したが、確認できる本格的な日本放送協会局はパラオ」と整理していました。

サイパンには巨大な無線通信網があった

だからといってサイパンに電波設備がなかったわけではありません。

むしろ戦争末期には重要な軍事通信拠点でした。

米海軍が日本側資料を分析した1945年の報告書では、サイパンから東京、父島、パガン、トラック、ラバウル、グアム、ヤップ、マナド、マニラ、那覇などへの陸軍無線回線が存在していたことが確認されています。

これは非常に大規模なネットワークです。

しかし、これは軍の「通信」です。

ニュース、音楽、演芸などを一般住民へ送るJRAK型の「放送」とは分けて考えなければなりません。

北マリアナ諸島編 〜サイパン・テニアン・ロタとラジオ〜

サイパンは南洋群島北部の中心だった

サイパンは砂糖産業を中心に日本人居住者が多く、南洋群島北部の主要都市となっていました。

南洋庁にもサイパン支庁が設けられ、テニアン、ロタなどを管轄していました。1943年の行政再編後は北部支庁の中心となります。

放送局建設候補としてサイパンが早くから挙げられたのも、この人口・行政上の重要性が背景にありました。

しかし、本格的な一般放送局建設が実現する前に戦争が激化します。

1944年6月から7月にかけてサイパンは激戦地となり、日本側の行政・通信機能そのものが失われました。

ラジオは日本本土からの放送を受信するメディアだった

サイパンにJRAKのような常設放送局がなかった以上、一般のラジオ聴取では遠距離放送の受信が重要になります。

短波であれば、日本本土やパラオからの放送を受信できます。

この意味でJRAKはパラオだけの放送局ではなく、サイパンを含む広大な南洋群島を意識した局でした。

一方、軍事面ではサイパンに多数の無線回線、通信隊、傍受施設が集中しました。

「放送局は確認できないが無線設備は非常に発達していた」という、一見すると矛盾する状況です。

カロリン・マーシャル諸島編 〜トラック・ヤップ・ポナペ・ヤルート〜

トラックは日本海軍の一大通信拠点

現在のミクロネシア連邦チューク州にあたるトラック諸島は、日本海軍の重要拠点となりました。

米海軍がまとめた日本軍無線通信資料にも、トラックに海軍通信隊が置かれ、ポナペなどに分遣隊を配置していたことが記録されています。

トラック。

ポナペ。

ヤップ。

これらを結ぶ無線通信網は充実していました。

しかし、ここでも一般向けラジオ放送とは区別が必要です。

現在確認できる史料では、トラックやポナペにJRAKと同じ日本放送協会の常設一般放送局が正式開局したとは確認できません。

ヤルートとマーシャル諸島

マーシャル諸島ではヤルート支庁が行政拠点でした。

日本海軍の軍事施設や無線通信施設も多数置かれましたが、一般聴取者向けの日本放送協会局として確認できるものはありません。

つまり南洋群島の放送網は、

複数の一般放送局を島ごとに配置

したのではなく、

パラオの短波基幹局
+ 日本本土からの短波
+ 各地の受信機
+ 軍・行政通信網

という形に近かったと見る方が実態に合っています。

1944年 JRAKパラオ放送局の終焉

空襲で送信機能を失う

1944年に入るとパラオ周辺への米軍航空攻撃が激化します。

7月25日の空襲によってJRAKの送信施設が破壊され、放送機能を失ったとする放送史料があります。

このため、パラオ放送局は1945年8月の終戦まで放送し続けた局ではありません。

1944年7月の段階で実際の送信機能を失っています。

1944年8月1日 パラオ放送局閉鎖

8月1日、日本放送協会の放送局として正式に閉鎖されたとされています。

開局から約2年10か月です。

JDAK豊原放送局の約3年8か月よりもさらに短い活動期間でした。

そして閉鎖後、パラオの放送施設・人員も戦時体制の中へ組み込まれていきます。

したがって第六部の「パラオ放送局史」の終点は、1945年8月ではなく1944年8月です。

1945年まで日本による南洋群島統治が続いたことと、JRAKが1945年まで存在したことを混同してはいけません。

グアム編 〜K6LFがあった島に日本軍が進攻した後〜

グアムには戦前から商業ラジオがあった

グアムは南洋群島ではありません。

第一次世界大戦後も米国統治下にあり、日本委任統治領だった北マリアナ諸島とは政治的な境界が存在しました。

グアムでは1930年代にK6LFという商業放送局が放送を行っていました。Guampediaも、K6LFをグアム最初の商業ラジオ局として記録しています。

つまりグアムでも、日本軍進攻以前からラジオ文化が存在していました。

1941年12月 日本軍がグアムを占領

1941年12月10日、日本軍がグアムを占領します。日本側では島名を「大宮島」と変更しました。占領は1944年7月の米軍上陸まで続きました。

しかし、フィリピンのKZRHや香港のZBW・ZEKのように、既存の民間・政府放送局を接収して日本側の一般放送局として継続運用したことを示す確実な公開資料は、今回確認できませんでした。

むしろ米国国立公園局の資料には、日本軍政当局が住民から自動車、ラジオ、カメラを没収したことが記録されています。

「大宮島放送局」があったと断定しない

グアムには日本軍の通信施設が存在しました。

またサイパンからグアムへの軍用無線回線があったことも米海軍資料で確認できます。

しかし、

軍の無線通信設備がある

ことと、

一般住民向けのラジオ放送局がある

ことは同じではありません。

公開一次資料や放送史資料から確認できない「大宮島放送局」などを推測で作ることは避けます。

グアムについては、

戦前にK6LFなどの放送が存在
→ 1941年に日本軍が占領
→ 住民のラジオ受信を統制
→ 日本軍の無線通信設備は存在
→ 日本側の一般放送局は現段階で確認できない

と整理するのが適切です。

ニューギニア・ビスマルク諸島・ソロモン諸島編 〜ラバウルの巨大無線基地〜

ラバウルは日本軍最大級の前進基地になった

1942年、日本軍はニューブリテン島のラバウルを占領し、その後、ニューギニア東部やソロモン諸島方面へ進出しました。アジア歴史資料センターの年表でも1942年のラバウル占領が記録されています。

ラバウルには大規模な無線通信施設が建設されました。

米海軍の日本軍通信分析資料では、ラバウルに通信隊、方向探知施設、傍受設備が置かれ、東京やサイパンなどと結ばれていたことが確認できます。

オーストラリア戦争記念館にも、終戦後に撮影された「ラバウル近郊の日本軍無線局」の写真が保存されています。説明では連合軍空襲によって破壊された無線局とされています。

ラバウルの「無線局」を一般放送局とは扱わない

ラバウルについては、後世の回想や文学作品などで「放送局」という表現が使われることがあります。

しかし、今回確認した軍事・公文書系資料から明確に確認できるのは、

軍用通信
傍受
方向探知
基地間通信

を担う大規模な無線施設です。

JRAKのように不特定多数へ定時番組を送る一般放送局だったことを裏付ける十分な資料は確認できませんでした。

したがって本稿では「ラバウル放送局」として一般放送局一覧に加えません。

これは、局名を増やすことより史実を優先するためです。

ガダルカナル・ニューギニア各地も同様

ガダルカナル、ブーゲンビル、ラエ、ウェワクなどにも日本軍の通信設備はありました。

しかし、軍用通信施設と一般放送施設を区別できないものについては「ラジオ放送局」と断定しません。

この地域の電波史そのものは非常に重要ですが、内容としては「放送史」より「日本軍通信史」の領域に入ります。

ウェーク島編 〜占領はされたが一般放送局は確認できない〜

ウェーク島は米国の太平洋拠点で、1941年12月に日本軍が占領しました。米国国立公園局も、ウェークがグアムやフィリピンとともに日本軍の占領下に入ったことを記録しています。

島内には軍事通信設備が不可欠でした。

しかし、日本占領期間中に住民や一般聴取者を対象とする定時ラジオ放送局が開設されたことを示す資料は、今回確認できませんでした。

ウェーク島は民間社会を対象とする地域放送網を作る場所というより、軍事拠点としての性格が極めて強かった地域です。

そのため「日本軍無線局」は存在しても「日本の放送局一覧」には加えません。

ナウル・オーシャン島編 〜軍事占領と無線通信〜

ナウルやオーシャン島、現在のバナバ島も日本軍の占領地域となりました。

戦後の接収・降伏関係資料はオーストラリア戦争記念館に残されており、日本軍部隊と連合国側の引き渡しの経過を確認できます。

ナウルには戦前から無線通信設備が存在していました。オーストラリア側の無線情報活動でもナウルの無線局が利用された記録があります。

しかし日本軍占領後について、JRAKのような一般聴取者向け定時放送局の存在を示す十分な資料は確認できません。

ここでも、

無線通信所

と、

ラジオ放送局

は区別しておきます。

アリューシャン列島編 〜アッツ・キスカにも日本軍の電波はあった〜

1942年 日本軍がアッツ・キスカを占領

太平洋戦争では、日本軍は北太平洋のアリューシャン列島にも進出しました。

1942年6月、日本軍は米国アラスカ準州のアッツ島とキスカ島を占領しました。キスカには当時、米海軍の気象・無線要員10人がいたことが米国国立公園局の資料で確認できます。

日本軍側も占領後、部隊通信、気象、警戒などのため無線を使用しました。

一般放送を目的とした局ではなかった

しかしアッツ・キスカの日本軍無線を「ラジオ放送局」とする根拠はありません。

米国国立公園局の証言資料でも、戦時中のキスカで扱われていたのは気象通信や軍用無線通信として説明されています。

アッツは1943年5月に米軍が奪還。

キスカからは同年7月に日本軍が撤退しました。

占領期間も短く、一般住民を対象とする地域放送制度を作る環境ではありませんでした。

このアリューシャン列島を加えることで、「日本軍が進出した場所には必ず日本のラジオ放送局があった」という理解が誤りであることが、より明確になります。

ポルトガル領ティモール編 〜第五部で扱いきれなかった地域〜

1942年に日本軍がディリへ進攻

現在の東ティモールにあたるポルトガル領ティモールも、第五部では詳しく扱えなかった地域です。

日本軍は1942年2月に東西ティモールへ進攻し、ポルトガル領のディリも占領しました。オーストラリア軍部隊は山岳地帯でゲリラ戦を続けています。

ディリには戦前から無線施設がありました。米中央情報局に残る戦時諜報関係資料にも、戦前ディリ無線局を担当していたポルトガル人通信技術者の存在が確認できます。

ディリの無線局も放送局とは断定しない

この設備は重要な通信拠点でしたが、日本占領期に一般住民を対象とする定時ラジオ放送へ転用されたことを示す十分な放送史料は確認できませんでした。

したがって、

日本軍がディリの無線施設を掌握した

ことと、

日本軍がディリでラジオ放送局を経営した

ことは分けて考えます。

第五部から漏れていた地域を補うという意味で本稿に加えますが、一般放送局一覧には含めません。

アンダマン・ニコバル諸島編 〜インド洋にまで及んだ日本軍の進出〜

「その他」という範囲では、インド洋のアンダマン・ニコバル諸島も触れておく必要があります。

1942年3月、日本軍がポートブレアへ進出しました。

英国側は撤退に際して、電信局と無線局を破壊したことが戦後にまとめられたアンダマン・ニコバル諸島史に記録されています。

日本軍側はその後、軍事・行政通信を再構築しました。

一方、ポートブレアから日本側の一般住民向け定時ラジオ放送が行われたことを示す十分な技術史料は、今回確認できませんでした。

インド独立運動に関係する放送はラングーン、シンガポールなど別の送信拠点から行われており、「アンダマン放送局」という日本側一般放送局が存在したと断定するのは避けます。

太平洋各地の「放送」と「通信」を整理する

ここまでの内容を整理すると、非常に重要な違いが見えてきます。

地域日本側一般放送主な電波設備の性格
パラオ確認できるJRAK・短波10kW
サイパン常設局は未確認軍用通信・傍受・基地通信
トラック常設局は未確認海軍通信
ポナペ常設局は未確認軍用通信
ヤップ常設局は未確認軍用通信
マーシャル諸島常設局は未確認軍用通信
グアム日本側一般局は未確認軍用通信・受信統制
ラバウル一般局としては未確認大規模軍用通信・方向探知
ウェーク未確認軍用通信
ナウル未確認軍用通信
アッツ・キスカ未確認軍用・気象通信
ポルトガル領ティモール未確認軍用・行政通信
アンダマン・ニコバル未確認軍用・行政通信

この表を見ると、今回の記事で正式な一般放送局として詳しく扱えるのはJRAKパラオ放送局が中心になります。

しかし、これは情報不足というだけではありません。

むしろ重要な結論です。

「日本が支配・占領した地域」と「日本側の一般ラジオ放送局が置かれた地域」は一致しません。

人口の多い都市・植民地では放送を行政や宣伝に使う価値が高く、既存設備も存在しました。

一方、軍事基地として占領した小島では、一般放送局よりも軍令・警戒・気象・航空・艦船通信が優先されます。

放送局の分布そのものが、その地域を日本側がどのように位置付けていたのかを映し出しているとも考えられます。

JRAKはシリーズの中でも特殊な放送局だった

これまで取り上げた代表局を並べると、JRAKの特徴がさらに明確になります。

地域代表局主な方式・代表出力
朝鮮JODK京城中波・最大50kW級
台湾JFAK台北・民雄中波・100kW級
中国東北部MTCY新京長波100kW級・中波・短波
樺太JDAK豊原中波1kW設備・戦時50W・電力線放送
東南アジアマニラ・昭南・ジャワなど中波・短波・有線を地域別に使用
太平洋諸島JRAKパラオ短波10kW

JRAKだけが、最初から広大な島嶼放送圏を意識して短波を主役に据えています。

しかもパラオは単なる受信地点ではありません。

東京から届いた番組を受け取り、再び短波で周辺へ送り出す。

無線電話と放送を同じ電気通信基盤の上に置く。

3つの短波帯を伝搬条件によって使い分ける。

現在の衛星中継網とは全く異なる技術ですが、離島を広域ネットワークで結ぶという考え方は非常に現代的です。

なぜ太平洋諸島に中波局網を作らなかったのか

技術的には、主要島ごとに中波300Wや1kW程度の局を作る方法も考えられました。

実際、1930年代の計画段階ではサイパン、パラオ、ポナペ、トラックなどへの小電力局配置案が存在しました。

しかし、それを実現するには各島ごとに、

送信機
アンテナ
発電設備
スタジオ
技術者
交換部品
番組伝送回線

が必要です。

人口が分散した広大な島嶼地域では費用対効果の問題もあります。

そこで、短波一局から広域へ届けるJRAK方式には合理性がありました。

ただし短波にはフェージング、時間帯による受信状態の変化、電離層伝搬への依存などがあります。

JRAKが6MHz、9MHz、11MHzという複数周波数を持っていたのは、こうした短波特有の性質に対応するためでもありました。

戦争は「放送網」より「軍事通信網」を拡大させた

1930年代には南洋群島に複数の一般放送局を作る構想がありました。

ところが実際に戦争が始まると、拡大したのは一般放送局網ではなく軍事通信網でした。

サイパン。

トラック。

ラバウル。

グアム。

ヤップ。

ポナペ。

各地は無線回線で相互に結ばれました。米海軍の分析資料を見ると、そのネットワークは東京や日本本土とも接続された複雑なものでした。

ラジオ放送の歴史だけを調べていると、「なぜこの重要基地には放送局がないのだろう」と感じます。

しかし軍事通信史を重ね合わせると理由が見えてきます。

戦時下で優先されたのは、

住民に音楽を届けること

より、

艦隊・航空隊・司令部を確実に結ぶこと

だった地域が多かったのです。

JRAKが存在したことの方が、むしろ太平洋戦争期の島嶼地域では例外的だったともいえます。

1945年まで残った南洋群島と消えていたJRAK

1944年夏までにサイパン、グアムなどは米軍側へ移り、パラオ放送局も7月に機能を失いました。

一方、パラオ本島やヤップ、トラックなどには終戦まで日本軍部隊や日本側行政組織が残った地域があります。

南洋庁そのものの所管は、日本の敗戦後となる1945年8月26日に外務省へ移され、9月以降には米軍による進駐と日本人住民の引き揚げが進められました。

つまり、

JRAKの終わり 1944年

南洋群島における日本側行政の終わり 1945年

には約1年のずれがあります。

シリーズ①から⑥では、1945年8月15日を機械的にすべての終点にせず、それぞれの放送局・組織の実際の運用終了時点を区別してきました。

第六部でも同じ考え方を採ります。

太平洋諸島の放送史から見えてくること

第六部を通して最も印象的なのは、「放送局が存在しなかった地域」もまた放送史を考えるうえで重要だということです。

パラオにはJRAKがありました。

しかしサイパンには、巨大な軍用通信網がありながら、日本放送協会の常設一般局は確認できません。

グアムには戦前K6LFがありましたが、日本占領期には住民のラジオ受信そのものが統制され、日本側一般放送局の存在は確認できません。

ラバウルには太平洋有数の日本軍無線拠点がありましたが、それをそのまま「ラバウル放送局」と呼ぶことはできません。

アッツやキスカでも無線通信は不可欠でしたが、一般放送ではありません。

この区別を徹底すると、日本が関わったアジア・太平洋のラジオ放送史全体も見え方が変わります。

日本が支配した場所すべてへ同じ放送制度を持ち込んだわけではありません。

朝鮮には朝鮮放送協会。

台湾には台湾放送協会。

満洲国には満洲電信電話。

関東州にはJQAK。

樺太には日本放送協会JDAK。

東南アジアには地域ごとの軍政放送管理局。

南洋群島にはJRAK。

その地域の政治制度、人口、地理、既存の通信設備、軍事的重要性によって、放送の形は大きく異なりました。

その中でもJRAKパラオ放送局は、短波によって広大な海域を一つの放送圏にしようとした、日本の戦前放送技術史上でも非常に珍しい存在です。

そして1944年、戦争によってその電波は途絶えました。

しかし、パラオをはじめ太平洋各地の電波史がそこで完全に途切れたわけではありません。

米軍が占領したサイパン、グアム、ペリリュー、ウルシーなどでは、今度は米軍の放送設備が設置されていきます。

JRAKが消えた後、太平洋の電波空間はどのように塗り替えられたのか。

戦前・戦中に使われた放送設備や通信設備はどうなったのか。

そして朝鮮、台湾、中国、樺太、東南アジアで日本側が使用した局舎、送信機、スタジオ、人材は戦後の放送へどのようにつながったのか。

それらを次の第七部で、シリーズ全体の総括として追っていきます。

資料を読む際に注意したい点

太平洋諸島の電波史を調べる場合、「radio station」「無線局」「放送局」という言葉の扱いに特に注意が必要です。

英語の「radio station」は、必ずしも日本語でいう一般ラジオ放送局を意味しません。

軍用無線局。

気象無線局。

海岸局。

方向探知局。

傍受局。

航空基地通信局。

こうした施設も英語資料ではradio stationと表記されます。

たとえば米海軍資料にはサイパン、トラック、ラバウルなどの大規模なradio stationやcommunication unitが多数登場しますが、記録された任務は基地間通信、艦船通信、傍受、方向探知などです。

本稿では、不特定多数の聴取者へ編成された番組を送る設備であることを確認できない場合、一般放送局には分類していません。

またJRAKについても、開局日、放送停止日、正式閉鎖日を区別する必要があります。

1941年9月24日 正式開局

1944年7月25日 空襲で送信機能喪失とする記録

1944年8月1日 日本放送協会の放送局として閉鎖

という流れです。

したがって「1944年8月まで放送した」という表現より、「7月に放送機能を失い8月に閉鎖」と記す方が実態を正確に表します。

参照資料

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