日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史⑤ 〜東南アジア編〜

マニラ・昭南・ジャワ・ラングーンを結んだ南方放送〜1941年から1945年までの放送網と技術史〜

今回は「日本が関わったアジア・太平洋地域の ラジオ放送史」の第5回、東南アジア編です。

今回の対象は、現在のフィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジアを中心とする地域です。

パラオ、サイパン、トラック、ポナペ、ヤップなどの太平洋諸島は、第六部「太平洋諸島編」で改めて取り上げます。また香港については第三部「中国編」で詳しく扱ったため、本稿には含めません。

東南アジア編は、これまでの朝鮮、台湾、中国、樺太とは放送制度の成り立ちが大きく異なります。

朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会、樺太には日本放送協会豊原放送局という比較的明確な運営主体がありました。

東南アジアでは、太平洋戦争開始後に日本軍が各地を占領し、そこにすでに存在していた放送局や送信施設を接収・復旧したり、新たな放送設備を建設したりしています。

しかも、すべてを同じ組織が運営したわけではありません。

フィリピンは陸軍第14軍、ビルマは第15軍、ジャワは第16軍、マレー・スマトラは第25軍、セレベス・ボルネオ方面は日本海軍の軍政区域でした。地域ごとに軍政制度が異なり、それに対応する形で放送組織も作られています。

さらに重要なのが、日本放送協会との関係です。

「南方の放送局=日本放送協会の海外支局」ではありません。

1942年5月に「南方占領地放送暫定処理要領」がまとめられ、各軍政監部の外局として放送管理局を置く方針が示されました。6月には「南方圏放送計画案」が策定され、日本放送協会から職員を派遣する体制が整えられます。9月には日本放送協会本部に会長直属の「南方室」が設けられました。

日本放送協会から南方へ派遣された職員は延べ302人。

それに対して現地で採用された職員は約1,290人に達しました。

実際の放送は、日本人だけではなく、現地の技術者、アナウンサー、通訳、音楽家、事務職員など、多数の現地スタッフによって支えられていたのです。

本稿では、各地域でラジオがどのように始まり、日本軍進出後に誰が放送を管理し、どのような送信設備を使い、何を放送したのか。そして日本側の放送管理がどのように終わったのかを、地域別・時系列で整理します。

東南アジア編を読む前に 〜「南方放送」とは何だったのか〜

日本軍進出以前から各地にラジオがあった

東南アジアでも、ラジオ放送は日本軍が持ち込んだものではありません。

フィリピンでは米国式の広告放送を基本とする商業ラジオが発達し、1941年には推定約12万5,000人の聴取者がいました。

蘭領東印度、現在のインドネシアでは1920年代から小規模局が登場し、1934年にはNIROMが放送ネットワークを形成。1937年にはインドネシア人によるPPRKが組織され、1940年から本格的な現地住民向け放送を行っていました。

ビルマでは1940年にラングーン放送局XYZが開局。

シンガポールでも1937年にはカルデコット・ヒルに本格的な放送施設が完成していました。

したがって1942年前後に各地で起きたのは、

既存局を接収する
→ 壊された設備を修復する
→ 日本軍政下の放送へ再編する
→ 必要な地域へ新局を増設する

という変化でした。

放送には三つの大きな対象があった

NHK放送文化研究所の研究を整理すると、南方占領地で行われた放送には大きく三つの対象がありました。

一つは、現地にいた日本人軍人や日本人居住者。

二つ目は、現地住民。

三つ目は、連合国軍や連合国側地域を対象とする対敵放送です。

同じ送信所から、

ニュース
音楽
演芸
語学講座
生活情報
軍政当局からの告知
日本人向け慰問番組
外国軍・外国住民向けの対外放送

が送り出されました。

「軍事宣伝だけを流す局」でもなければ、「普通の娯楽ラジオ局」でもありません。

軍政下の情報伝達手段と地域の日常メディアという二つの性格が同じ放送局の中に存在していました。

フィリピン編 〜KZRHマニラ放送局と比島放送管理局〜

日本軍進攻以前は米国型商業放送が発達

日本軍進攻前のフィリピンには主要な商業放送局があり、聴取料ではなく広告収入で運営されていました。

音楽などの娯楽番組が多く、ディスクジョッキーやアナウンサーがレコードを自ら操作しながら番組を進行する、米国型の商業ラジオ文化が形成されていました。

この既存の放送環境が、占領後の日本側放送にも少なからず影響します。

1942年1月14日 KZRHマニラ放送局が再開

1942年1月2日、日本軍がマニラを占領しました。

米軍は撤退時に放送設備を破壊しており、とりわけマニラ・ハイツのRCA送信所はそのまま使用できる状態ではありませんでした。

日本軍の報道部門はヒーコック・ビルにあったKZRHを演奏所、マニラ・ハイツの施設を放送所として復旧を開始します。

約10日で送信設備を復旧し、1月14日にマニラ放送局KZRHが放送を再開しました。

呼出符号と周波数は戦前からのものを引き継いでいます。

これは重要な点です。

日本占領期になったからといって、直ちにJO、JB、MTなど日本側独自の呼出符号へ変更したわけではありません。

既存施設の連続性がありました。

なお1943年10月14日のフィリピン共和国成立に合わせて、KZRHはPIAMへ呼出符号を変更したことがNHK研究の注記で確認できます。

日本放送協会から最初の7人が到着

1942年2月15日、日本放送協会から7人の職員がマニラへ到着しました。

現地技術者とともに短波送信設備を増設し、既存施設の改良を進めます。

その後も派遣者が増え、1943年2月には「比島放送管理局」が正式に発足しました。

ここで初めて、

軍による応急放送
→ 日本放送協会派遣職員の参加
→ 比島放送管理局による組織的運営

という体制が整います。

1943年 セブ・ダバオと三つの中継放送所

フィリピンは7,000を超える島々から成ります。

マニラ一局だけで主要地域をカバーすることはできません。

そこで各地に地方局と中継施設が整備されました。

放送拠点開始性格
マニラ KZRH・後にPIAM1942年1月14日中央局
バギオ中継放送所1943年2月7日中継局
イロイロ中継放送所1943年3月5日中継局
レガスピー中継放送所1943年5月25日中継局
セブ KZRC1943年11月1日地方放送局
ダバオ PICD1943年11月3日地方放送局

セブとダバオではマニラから送られてくる番組の再放送が主体で、必要に応じて地域独自番組を挿入しました。

ダバオ放送局は既存の大規模局舎を使用したものではありません。

適当な建物を確保できず、2階建ての民家を借り、2階をスタジオと送信機室、1階を事務室へ改造して開局しました。

放送網が必ずしも立派な専用局舎で構築されたわけではなかったことが分かります。

英語・タガログ語・スペイン語・ビサヤ語

マニラでは日本語だけでなく、英語、タガログ語、スペイン語などによるニュースを放送しました。

1942年12月8日の開戦1周年特別番組には、英語ニュース、タガログ語・ビサヤ語・スペイン語ニュース、音楽、ラジオ体操、家庭向け番組、児童番組、街頭行進実況、ラジオドラマなどが並んでいます。

約5万枚のレコードを持っていたマニラ放送局

フィリピン放送で特に注目したいのが音楽です。

マニラ放送局には約5万枚ものレコードがあり、一日に10回以上音楽番組を流す編成も行われました。

日本の歌だけではありません。

フィリピン古来の音楽についても調査し、現地の演奏家を起用するなど、音楽番組にはかなり力が入れられています。

宣伝や政策情報を伝えるには、まずラジオそのものを聞いてもらう必要があります。

現地の聴取習慣に合わせて音楽を重視したことは、南方放送全体に共通する特徴でした。

対敵放送も重要な任務

フィリピンでは米比軍を対象にした対敵放送も実施されました。

一般の聴取者向け放送とは異なり、戦線にいる兵士へ心理的な影響を与えることを目的とする放送です。

ラジオという一つの技術が、

家庭向け娯楽
ニュース
軍政告知
敵軍向け心理戦

という全く異なる用途に使われました。

戦争末期に比島放送網は崩壊

1944年以降、米軍の反攻により放送局の維持が困難になります。

マニラ、ダバオなどは空襲を受け、職員は退避を余儀なくされました。

日本放送協会からフィリピンへ派遣された職員のうち30人が亡くなっています。南方全体の殉職者45人のうち3分の2を占める数です。

比島放送管理局は1945年8月15日まで組織的な放送を維持することができませんでした。

マレー・シンガポール編 〜昭南放送局とマレー半島の局網〜

シンガポールには1937年完成の放送施設があった

シンガポールでは日本軍占領以前から本格的なラジオ放送が行われていました。

カルデコット・ヒルには1937年、恒久的な放送局が完成しています。

防音・空調を備えたスタジオや出演者、アナウンサー、調整技術者のための施設を持つ近代的な放送局でした。

1942年の戦闘でもこの施設は残り、日本占領期にも利用されました。

1942年 昭南放送局

日本軍占領後、シンガポールは当時「昭南」と改称されました。

旧稿では、3月から短波、4月から中波放送が始まり、その後マレー半島の放送網の中心となったことを整理しています。

当時の『昭南新聞』を確認すると、1942年5月時点で昭南放送局は、

25m 12MHz
225m 1,333kHz

の短波と中波を使用していました。

これは非常に興味深い構成です。

中波1,333kHzはシンガポール周辺の地域放送。

短波12MHzはより遠距離への伝送。

同じ局が地域向け中波と遠距離向け短波を併用していました。

ただし、これは1942年5月から7月に新聞番組欄で確認できる周波数であり、占領期間中に一度も変更されなかったと断定するものではありません。

マレー半島にも地方局

旧稿とNHK関係資料で確認できる主な拠点は、

ペナン
昭南・シンガポール
クアラルンプール
タイピン
イポー
マラッカ
セレンバン

などです。

マレー半島とスマトラは第25軍の軍政と密接な関係にあり、昭南は放送管理上も重要な拠点となりました。

昭南放送局は多言語放送だった

1942年5月29日の番組表を見ると、

日本語ニュース
マレー音楽
日本語講座
マレー語ニュース
タミル語ニュース
ヒンドゥスターニー語ニュース
広東語ニュース
福建語ニュース

などが一晩の番組に並んでいます。

別の日にはテルグ語音楽や中国音楽も登場します。

シンガポール・マレーは多民族・多言語社会です。

一つの言語だけでは社会全体へ放送を届けることができないため、言語別のニュースや音楽番組が必要でした。

朝鮮や台湾の二重放送とは異なる、多言語都市ならではの編成です。

日本本土からニュースを中継

昭南放送局の番組表では「Nippon-Go News relayed from Tokyo」、つまり東京から中継された日本語ニュースが毎日のように確認できます。

東京
↓ 短波など
昭南で受信

現地中波・短波から再送信

という広域放送ネットワークが機能していたことが分かります。

短波受信は禁止・制限の対象になった

一方、占領地の聴取政策には大きな矛盾がありました。

住民にラジオを聞いてもらわなければ日本側の情報は伝わりません。

しかし短波受信機を自由に使わせれば、BBCなど連合国側の放送も聞くことができます。

1942年8月の『昭南新聞』には、一般住民が短波放送を受信したり短波受信機を所有したりすることを制限する当局者の説明が掲載されています。

「ラジオを聞かせたい」と「外国の短波放送は聞かせたくない」という、戦時放送政策特有の矛盾がここにあります。

蘭領東印度編 〜ジャワ・スマトラ・セレベス・ボルネオの放送網〜

日本占領以前から東南アジア有数の放送地域

現在のインドネシアを中心とする蘭領東印度では、戦前から東南アジアの中でも比較的ラジオ放送が発達していました。

1934年にNIROMが全国的なネットワークを形成し、1937年にはインドネシア人によるPPRKが成立、1940年から本格的な放送を始めます。

1939年のジャワには8万6,617台のラジオ受信機があったとする統計も残されています。

日本軍はこの既存インフラを利用して放送網を再編しました。

ジャワは陸軍第16軍

1942年3月にジャワ島を占領すると、NIROMとPPRKの各局は日本軍によって接収されました。

占領直後は第16軍宣伝班。

1942年7月から第16軍軍政監部情報部。

同年10月から第16軍軍政監部放送管理局。

という順に管理組織が整備されました。

ここでも先に放送が始まり、後から制度が整えられています。

ジャワ8局の放送網

代表的な局と最大出力は次の通りです。

放送局日本側による放送開始最大出力
ジャカルタ1942年3月1kW
バンドン1942年3月5kW
スラバヤ1942年3月500W
ソロ1942年3月250W
ジョクジャカルタ1942年8月300W
スマラン1942年10月50W
マラン1943年9月75W
プルウォケルト1944年8月25W

数値は東亜放送協議会の施設一覧などをNHK放送文化研究所が再整理した最大時の代表値で、別資料に異なる値がある局もあります。

バンドン5kWからプルウォケルト25Wまで、最大200倍の差があります。

大出力局一局で全島を覆うのではなく、都市ごとに送信設備を配置するネットワークでした。

短波でジャワ島内を中継

1942年5月にはジャカルタから日本本土や他の南方地域向けの放送が始まり、7月には短波を使った島内中継も開始されています。

短波は国際放送だけの技術ではありません。

長距離の有線回線を十分に整備できない地域では、離れた都市の放送局同士を結ぶ中継回線としても利用されました。

クロンチョンとガムランが流れた

ジャカルタではクロンチョンなどインドネシアの大衆音楽やガムランが盛んに放送されました。

専属楽団も組織されています。

日本語講座やラジオ体操、講演もありましたが、番組全体の中で音楽が大きな位置を占めていました。

これは戦前からの聴取習慣を無視できなかったためでもあります。

政治的な情報だけを流してもラジオを聞いてもらえません。

現地の音楽文化を番組に取り込み、日常的な聴取を維持する必要がありました。

スマトラは第25軍

スマトラではジャワとは別に第25軍が放送を担当しました。

主な局は次の通りです。

放送局開始最大出力
メダン1943年3月1kW
パダン1943年6月50W
ブキティンギ1943年9月50W
タンジョンカラン1944年11月50W
コタラジャ1945年3月50W

パレンバン、タルトンについても計画や要員配置の記録がありますが、正式開局に至らなかったとみられるため、開局確認局とは分けて考える必要があります。

スマトラの放送局で働いた日本放送協会派遣職員は25人でしたが、現地採用職員は186人に達しました。

一局当たり数人の日本人職員と多数の現地職員で放送を維持していた実態が見えてきます。

「音楽の木」と呼ばれた街頭ラジオ

スマトラでは一般家庭へのラジオ普及が少なかったため、街頭ラジオが重要でした。

メダンでは1944年までに市内約50か所へ設置。

ブキティンギなどでも広場や主要施設に拡声器が置かれました。

樹木へスピーカーを取り付けたものを現地の人々が「音楽の木」と呼んだという記録も残っています。

放送局の送信出力だけを見て、実際の聴取範囲を判断できない理由の一つです。

50W局でも、市街地へ多数の拡声器を配置すれば多人数へ情報を届けられます。

セレベス・ボルネオ方面は海軍

セレベス・ボルネオ方面では、日本海軍の南西方面艦隊民政府、後の南西方面海軍民政府が軍政を担当しました。

ジャワやスマトラとは別の放送制度です。

主な設備は次の通りでした。

放送拠点開始設備
マカッサル1942年12月10kW
メナド1943年1月有線中継
バンジェルマシン1943年2月40W
バリックパパン1943年4月有線中継
シンガラジャ1943年4月有線中継
ポンチャナック1943年12月40W

南方占領地域最大級だったマカッサル10kW

マカッサル放送局は10kW。

NHK放送文化研究所は、日本軍占領下の南方放送局として最大規模の送信出力だったとしています。

大小二つのスタジオ、約850枚のレコード、ガムラン楽器を持ち、約30人の放送合唱団まで組織されていました。

中国編で取り上げた北京100kWや新京100kWと比較すれば小さいものの、「東南アジアの日本軍政下放送」という範囲では有力な基幹局でした。

ビルマ編 〜XYZラングーン放送局と緬甸放送管理局〜

1940年 英国統治下でXYZが開局

ビルマのラジオ放送は1940年4月、ラングーン放送局XYZの開局から始まります。

英国統治下の政府放送局で、英語ニュース、英国音楽、ビルマ語ニュース、ビルマ音楽などを放送していました。

撤退する英印軍が放送所を破壊

1942年3月、日本軍がラングーンへ迫ると、英印軍は送信設備を徹底的に破壊しました。

3月8日に日本軍がラングーンへ入ったものの、放送施設をそのまま利用することはできませんでした。

5月になって放棄されていた送信機を発見し、これを改造。

7月にはラングーン北方のイェグー村を放送所に定めました。

1942年8月15日 仮放送開始

1942年8月15日16時30分、軍宣伝班によってビルマ・インド向けの仮放送が始まりました。

当初は日本人嘱託9人とビルマ人など13人が中心で、放送時間は昼1時間30分、夜40分ほどでした。

フィリピンのように多数の島を局網で結ぶ必要がないため、ビルマでは基本的にラングーン一局を中心とします。

1943年1月25日 緬甸放送管理局

日本放送協会から職員が派遣され、1943年1月25日に緬甸放送管理局が正式発足しました。

局長は松内則三。

マニラへ最初に派遣された放送関係者の一人でもありました。

軍宣伝部から番組企画、編成、放送実務を引き継ぎ、同年3月から新しい局舎で放送を行います。

ビルマ国内とインドという二つの方向

ラングーン放送には二つの重要な対象がありました。

ビルマ国内の住民。

そして英領インドです。

ビルマ国内ではニュース、音楽、教育、日本文化紹介などを放送。

日本人将兵向けには「郷土だより」なども編成されました。

一方、インド方面へは政治的な対外放送を強化します。

インド独立運動との関係を取り込んだ放送も行われ、1943年にはインド独立連盟の放送部まで緬甸放送管理局内に置かれました。

短波を聞けないよう受信機を改造

ビルマでも外国短波放送の聴取は問題とされました。

1942年4月頃に約1万台あった受信機は、短波を受信できないよう改造の対象となりました。

同時に共同聴取施設やラジオ塔の整備が進み、ラングーンでは共同聴取施設35か所、ラジオ塔24か所が設置された記録があります。

ここでも、

自由な短波受信を制限する
一方で当局側放送は多くの人に聞かせる

という構造が見られます。

1945年4月 ラングーンから撤退

戦争末期には空襲で施設が大きな被害を受け、放送設備の維持が困難になりました。

局員の一部まで警備・戦闘関連業務へ動員され、日本側放送組織はラングーンから撤退します。

そのため緬甸放送管理局も、1945年8月15日の終戦放送まで存続できませんでした。フィリピンとビルマは、南方放送網の中でも特に戦闘による人的・設備的損失が大きかった地域でした。

フランス領インドシナ編 〜1945年3月まで残ったフランス側放送行政〜

マニラやジャワとは成立過程が違う

現在のベトナム、ラオス、カンボジアにあたるフランス領インドシナ、いわゆる仏印は、他の地域とは事情が違います。

日本軍は1940年に北部仏印、1941年に南部仏印へ進駐しました。

しかし1945年3月まで、フランス植民地行政そのものは基本的に存続していました。

したがって1941年や1942年のハノイ、サイゴンの放送局を、マニラや昭南と同じ意味で「日本軍放送局」と呼ぶことはできません。

日本側は既存放送を利用

この時期、日本側はフランス側の放送設備や放送枠を利用しながら、日本側の情報や番組を送りました。

旧稿でも、この地域では日本軍が放送局を全面接収して運営した他地域とは異なる方式だったことを整理していました。

1945年3月9日 放送を取り巻く状況が変わる

1945年3月9日、日本軍がフランス側の軍・行政機構を排除する、いわゆる仏印処理を実施しました。

ここから日本側による行政への関与は大きく変化します。

ビルマから撤退した日本放送協会関係者の一部がサイゴンへ移動し、終戦まで放送関係業務に携わったことも記録されています。

ただし仏印については、マニラ、ジャワ、スマトラなどに比べ、1945年の日本側放送管理について公開されている技術史料が限られています。

ハノイ、サイゴンなどの各送信所について、

呼出符号
周波数
送信出力
送信機メーカー
アンテナ設備

を一貫して確認できる史料は、今回の調査では十分に揃いませんでした。

したがって、具体的数値を推測で補うことはしません。

タイ編 〜日本軍政下には置かれなかった東南アジアの放送〜

東南アジア全体を扱う以上、タイについても位置付けを明確にしておく必要があります。

タイでは1941年12月8日に日本軍との間で戦闘が発生しましたが、同日中に日本軍の領域通過を認める協定が成立し、12月21日には日タイ同盟条約が結ばれました。

つまりタイは、フィリピン、マレー、ビルマ、蘭領東印度のような日本軍政占領地ではありません。

そのため、本稿で扱ってきた「放送管理局」のネットワークにも同じ形では組み込まれていません。

日本軍や日本側機関がタイ国内の放送や通信を利用したことはありましたが、今回確認した資料から、マニラやラングーンのような「日本軍政下の日本側放送局」として具体的な局網を構成する根拠は確認できませんでした。

したがってタイを、日本軍放送局一覧へ無理に加えることはしません。

東南アジアの主要放送拠点を整理する

今回確認した主要な放送拠点を、制度別にまとめると次のようになります。

地域中心的放送拠点日本側の主な管理主体
フィリピンマニラ、セブ、ダバオ陸軍第14軍・比島放送管理局
マレー・シンガポール昭南、ペナン、クアラルンプールなど陸軍第25軍系統
ジャワジャカルタ、バンドン、スラバヤなど8局陸軍第16軍・放送管理局
スマトラメダン、パダン、ブキティンギなど陸軍第25軍・放送監理局
セレベス・ボルネオ方面マカッサル、バンジェルマシンなど南西方面艦隊民政府
ビルマラングーンXYZ陸軍第15軍・緬甸放送管理局
フランス領インドシナハノイ、サイゴンなど既存局1945年3月までフランス行政存続
タイタイ側既存放送日本軍政放送網には該当しない

この表だけでも、東南アジアの「南方放送」が一つの放送会社によって構築されたネットワークではなかったことが分かります。

東南アジアの放送を技術史から見る

25Wから10kWまで

東南アジアの主要送信設備を比較すると、

プルウォケルト 25W
バンジェルマシン 40W
ポンチャナック 40W
スマラン 50W
パダン 50W
ソロ 250W
ジョクジャカルタ 300W
スラバヤ 500W
ジャカルタ 1kW
メダン 1kW
バンドン 5kW
マカッサル 10kW

という大きな幅があります。

朝鮮の50kW、台湾の100kW、中国の100kW級局と比較すると小規模です。

これは、東南アジア占領地では大電力基幹局を新規建設するより、既存局を利用しながら都市ごとに小・中出力局を配置する方式が多かったためです。

戦争開始後に短期間で構築されたことも、大規模施設を一から建設しにくかった要因です。

中波だけではない

東南アジアの放送網では中波と短波、有線放送、街頭拡声設備が併用されました。

昭南では1942年に中波1,333kHzと短波12MHz。

ジャワでは短波を島内中継。

ビルマでは短波をインド方面への対外放送。

バリックパパンなどでは無線送信ではなく有線放送。

そして各都市にはラジオ塔。

用途に応じて異なる技術を組み合わせています。

現在の放送ネットワークに置き換えるなら、

基幹伝送
地域送信
末端配信

を、それぞれ短波、中波、有線・拡声設備で構成していたとも考えられます。

ラジオ塔が示す「受信側」の問題

送信機だけを見ても、南方放送の全体像は分かりません。

ラジオ受信機の普及率が非常に低い地域が多かったからです。

さらに、外国短波放送の聴取を防ぐ目的で、受信機の接収や短波受信機能の制限まで行われました。

その代わりとして拡大したのが共同聴取です。

ジャカルタでは人口40万人に対して40か所、スラバヤ31か所、スマラン20か所、バンドン17か所などのラジオ塔設置計画が確認できます。

ビルマでもラングーンに共同聴取施設35か所、ラジオ塔24か所。

スマトラのメダンでは実際に50か所ほどへ街頭ラジオが設置されました。

「何kWの送信機だったのか」だけでなく、

その電波を誰がどこで聞けたのか

まで見なければ、当時のラジオ放送の実態は理解できません。

日本語だけではなかった南方放送

東南アジアで使われた言語は非常に多岐にわたります。

日本語、英語、タガログ語、ビサヤ語、スペイン語、マレー語、タミル語、ヒンドゥスターニー語、広東語、福建語、インドネシア語、ジャワ語、ビルマ語など。

この多言語性は、東南アジア放送史最大の特徴の一つです。

地域によって民族、言語、宗教、文化が大きく異なるため、東京から一つの番組を送れば済むというものではありませんでした。

だからこそ各地で現地職員が多数採用され、現地音楽や演芸が番組へ組み込まれました。

日本放送協会からの派遣職員302人に対して現地採用職員が約1,290人だったという数字は、この事情を端的に表しています。

日本本土とは短波で結ばれていた

日本本土と東南アジアの放送局を結ぶうえで、短波は不可欠でした。

東京で制作した番組を短波で送信。

現地局が受信。

必要に応じて中波で再送信する。

基本的には、

東京

短波

現地中央局

中波・短波・有線

地方局・ラジオ塔・聴取者

という流れです。

昭南の番組表に東京からのニュース中継が記録されているのは、その具体例です。

数千km離れた局同士を無線で結ぶという意味では、短波が現在の衛星回線や国際専用線に近い役割を担っていました。

1945年 放送網は同じ日に終わったわけではない

シリーズ全体で繰り返し確認している通り、「1945年8月15日=すべての放送局の閉局日」ではありません。

フィリピンでは、放送組織は終戦以前に戦闘によって潰散。

ビルマもラングーン撤退時に放送が終了。

ジャワ、スマトラなどでは8月まで放送が続きました。

スマトラのメダンでは特に興味深い記録があります。

1945年8月14日、「明日重大放送がある」と予告したにもかかわらず、15日未明に軍参謀室から東京の正午放送を中継しないよう命令されました。

そのため正午の時報後、東京からの中継を切って音楽へ切り替えています。

スマトラの住民へ敗戦が正式に伝えられたのは8月20日で、ブキティンギ放送局から第25軍司令官が放送しました。

これも「日本の玉音放送が8月15日正午に世界中の日本関係局からそのまま流れた」と考えることができない例です。

昭南では日本の降伏後も終戦処理が続き、日本軍がシンガポールで正式な降伏文書に署名したのは1945年9月12日でした。

各放送設備がいつ、どの組織へ、どの状態で引き渡されたのかについては、第七部の戦後編で詳しく追います。

東南アジアの放送史から見えてくるもの

今回の東南アジア編で最も特徴的なのは、放送網の「不統一さ」そのものです。

マニラでは米国式商業局のKZRHを利用。

シンガポールでは英国が建設したカルデコット・ヒルの施設を利用。

ジャワではNIROMとPPRKの設備を接収。

スマトラでは既存設備が少なく新局を増設。

セレベス・ボルネオでは海軍が放送局を一から整備。

ラングーンでは破壊された英国側設備を復旧。

仏印では1945年3月までフランス側行政そのものが残りました。

同じ「日本が関わった東南アジアのラジオ放送」と呼んでも、その成立過程は全く同じではありません。

さらに日本放送協会も、これらを自らの海外地方局として経営していたわけではありません。

軍政下の放送管理組織へ職員を派遣し、現地職員とともに技術・制作実務を担当しました。

だからこそ、この記事で扱った局を一括して「海外のNHK」と呼ぶのも、「すべて日本軍直営局」と呼ぶのも正確ではありません。

一方、放送技術史として見ると非常に興味深い世界があります。

戦闘で破壊された送信機を短期間で修復する。

25Wから10kWまで異なる送信機を地域ごとに配置する。

短波で島々を結ぶ。

中波で都市を覆う。

有線放送で送信電波を出さない。

街頭スピーカーで受信機不足を補う。

東京から数千km離れた放送局へ短波でニュースを送り、再び現地の中波から放送する。

現在のラジオネットワークとは技術が違っても、「基幹回線と地域局を組み合わせて一つの放送圏を作る」という考え方には共通する部分があります。

その一方、これらの放送設備が日本軍政の一部として整備され、軍政情報や対敵放送にも利用されたことは切り離すことができません。

また、番組の多くを現地音楽や娯楽が占め、多数の現地職員が実際の放送を担っていたことも同時に見る必要があります。

政治だけでも、技術だけでも、ラジオの歴史全体を説明することはできません。

1945年、日本側の管理が終わったあと、これらの放送局はさらに大きな転換点を迎えます。

ジャカルタやスラバヤの設備と人材はインドネシア独立期の放送とどう関わったのか。

マニラのKZRH系設備は戦後どう再建されたのか。

シンガポールのカルデコット・ヒルはどのように英国側放送へ戻ったのか。

ラングーンXYZはその後のビルマ放送へどうつながったのか。

これらは第七部「戦後、日本が関わったラジオ局はどのような運命をたどったか」で、他地域とあわせて検証します。

資料を読む際の注意

東南アジアの日本占領期放送では、「放送開始日」と「放送管理局正式発足日」が一致しない局が多くあります。

マニラは1942年1月14日にKZRHが放送を再開していますが、比島放送管理局の正式発足は1943年2月です。

ラングーンは1942年8月15日に仮放送を始め、緬甸放送管理局が正式発足したのは1943年1月25日です。

また、「放送局」と「中継放送所」「有線放送施設」は区別する必要があります。

バギオ、イロイロ、レガスピーはフィリピンの中継放送所。

バリックパパン、メナド、シンガラジャなどには有線放送を主体とする施設がありました。

これらをすべて同じ意味の「中波ラジオ局」として一覧化すると、実際の設備構成を誤って理解することになります。

周波数や出力についても年代による変更や資料差があります。本稿では確認できる代表値を記載し、十分な裏付けを得られない数値については掲載していません。

参照資料

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