日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史④ 〜樺太編〜

JDAK豊原放送局と樺太のラジオ放送〜1925年から1945年までの放送網と技術史〜

今回は「日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史」の第4回、樺太編です。

樺太の放送史を象徴する存在が、呼出符号「JDAK」を持つ日本放送協会豊原放送局です。

現在のロシア・サハリン州ユジノサハリンスクにあたる豊原市に設けられ、1941年12月26日に正式開局しました。

ところが、その放送史は一般的な地方放送局とは大きく異なります。

本来は620kc・1kWで運用する計画だったにもかかわらず、太平洋戦争の開戦に伴う電波管制によって750kc・50Wへ減力。さらに1942年3月には空中へ電波を放射する通常のラジオ放送をやめ、送信機の高周波を電灯線へ流す「電力線切替放送」へ移行しました。戦時下ならではの極めて珍しい放送方式です。

そして1945年8月。

ソ連軍が南樺太へ進攻し、8月15日の終戦の詔書を中継した後も戦闘は続きました。8月23日に日本側による放送が停止し、8月28日には局舎がソ連軍側の管理下へ移ります。

正式開局から約3年8か月。

JDAK豊原放送局は、太平洋戦争開戦の臨時ニュースによって事実上の放送を始め、日本側の統治が終わる中で放送を停止した放送局でした。

本稿では、豊原放送局だけを切り取るのではなく、樺太でラジオが受信され始めた1920年代から、放送局建設運動、1936年の臨時JDAK、正式開局、電波管制、電力線放送、日本本土との番組中継、そして1945年8月に日本側の放送管理が終わるまでを時系列でたどります。

樺太は朝鮮や台湾とは放送制度が異なる

シリーズを通して比較するうえで、最初に整理しておきたいのが豊原放送局の運営主体です。

朝鮮には社団法人朝鮮放送協会、台湾には社団法人台湾放送協会という、日本放送協会とは別法人の放送事業者が存在しました。

豊原放送局は違います。

正式名称は社団法人日本放送協会豊原放送局。

つまり、日本放送協会自身が設置した放送局でした。

この違いには樺太の行政上の位置付けが関係しています。

1905年の日露戦争後のポーツマス条約により、日本は北緯50度以南の南樺太を領有しました。1907年に樺太庁が設置され、行政の中心は後に豊原へ移ります。さらに1943年には、当時の日本の行政制度上、樺太が「内地」へ編入されました。アジア歴史資料センターも、1943年3月の樺太庁官制改正を「樺太の内地編入」のための制度改正として整理しています。

したがって豊原放送局を、朝鮮放送協会や台湾放送協会と同じ「海外の別法人放送」として扱うのは正確ではありません。

放送組織としては、

日本放送協会

札幌中央放送局

豊原放送局

という日本放送協会内部の放送網の一部として理解する必要があります。

1943年12月1日には札幌中央放送局豊原分室が置かれ、樺太における放送業務の地域的な管理・連絡機能も強化されました。

1925年 樺太でラジオが受信された記録

樺太のラジオ史は、豊原放送局の開局より16年以上前まで遡ります。

日本放送協会総合放送文化研究所が1971年にまとめた『豊原放送局』によると、1925年、大阪朝日新聞社が実施した試験放送を樺太南部の大泊無線局が受信しています。

大泊無線局から大阪朝日新聞社へ受信を知らせる祝電を送ったところ、その内容が翌日の放送で紹介されたと伝えられています。

当時のラジオ放送は始まったばかりです。

しかも北海道からさらに北に位置する南樺太で、本州方面から届く中波放送を安定して受信することは容易ではありませんでした。

夜間には電離層反射による空間波によって遠距離の中波が届きやすくなりますが、受信状態は季節、時刻、電離層状態、雑音などによって変化します。

感度や選択度の高い受信機も高価でした。

したがって1920年代半ばの樺太では、ラジオはまだ一般家庭に広く普及したメディアではありませんでした。

1928年 札幌放送局の開局で受信環境が変わる

1928年になると状況が変化します。

日本放送協会札幌放送局JOIKが開局し、北海道から送信される放送を南樺太で受信できる機会が増えました。

これ以前は東京、大阪など遠距離局を受信する必要がありましたが、北海道に送信拠点ができたことで、樺太にとって日本本土側の放送が地理的に近くなったことになります。

それでも、樺太独自のニュースを迅速に届けることはできません。

豊原の天候。

交通情報。

樺太庁からの情報。

地域行事。

地元の文化・芸能。

これらを北海道から放送するには限界があります。

樺太の人口と都市機能が拡大するにつれ、「樺太自身の放送局」が求められるようになります。

1933年 豊原にラジオ相談所

1933年10月には豊原にラジオ相談所が設けられました。

受信状態の相談や受信機の修理などに対応し、樺太におけるラジオ普及を支える役割を担いました。

送信所を作るだけではラジオ放送は普及しません。

受信機を購入する人が増え、故障した受信機を修理でき、アンテナや受信方法について相談できる環境が必要です。

朝鮮編や台湾編でも見てきたように、「送信設備」と「受信機普及」は放送網を構成する両輪でした。

樺太庁も放送局建設を計画

樺太庁自身も放送施設の必要性を認識していました。

1936年度には放送施設建設費を予算へ盛り込もうとしましたが、この計画は実現しませんでした。

その後、樺太庁をはじめ地元官民が日本放送協会や逓信当局へ放送局設置を求める方向へ移ります。

ここで重要なのは、豊原放送局を単純に「戦争遂行のため急に造られた局」と考えないことです。

樺太で放送局を求める動きは太平洋戦争開戦より前から存在しました。

地域ニュースを迅速に知りたい。

日本本土の番組を安定して聞きたい。

樺太独自の番組を放送したい。

そうした地域側の必要性がありました。

一方、1930年代後半になると日中戦争が長期化し、日本政府がラジオを政策伝達や情報統制の重要な媒体として位置付けるようになったことも事実です。

豊原放送局の成立には、この二つの背景が重なっています。

1936年 最初のJDAKが豊原に現れる

呼出符号JDAKは、1941年の豊原放送局開局時に初めて登場したものではありません。

1936年8月、札幌中央放送局は「樺太庁始政30回記念樺太拓殖共進会」の会場に臨時放送局を設置しました。

この臨時局に割り当てられた呼出符号がJDAKです。

会場からニュースや実況などを放送するとともに、豊原周辺における電波の到達状況を調査しました。北海道大学北方資料データベースにも「豊原臨時試験放送所」や「豊原臨時放送ニ於ケル今村長官」の資料が登録されており、当時の臨時放送の存在を確認できます。

つまりJDAKには、

1936年の臨時放送局

1941年の正式な豊原放送局

という二段階の歴史があります。

この1936年の運用は、単なるイベント放送というだけではなく、後の正式放送局設置に向けた電波伝搬試験としての意味も持っていました。

1937年から1938年 豊原公園に放送局を計画

1937年、日本放送協会は豊原公園内を放送局建設候補地として選定しました。

アジア歴史資料センターには「新設放送局位置に関する件」が残されており、日本放送協会から豊原放送局の位置について申請が行われたこと、所在地として「南二線東十三番地」が記録されています。

1938年、日本放送協会は豊原放送局の設置を正式に決定しました。

しかし、決定から実際の開局まではさらに3年以上を要します。

1940年5月に局舎建設工事が始まり、1941年秋になってようやく放送設備が完成段階へ入りました。

豊原放送局の施設

日本放送協会の放送史料によると、豊原放送局の所在地は、

樺太豊原市大字豊原字南二線東十三番地

でした。

豊原公園内に位置し、現在のユジノサハリンスクにあるガガーリン記念文化公園周辺にあたります。

局舎は鉄筋コンクリート造平屋建て、約540平方メートル。

内部には事務室、放送室、演奏室、レコード再生設備などがあり、職員宿舎も設けられていました。

終戦時までにまとめられた記録では、局長以下、総務、技術、放送担当を合わせて25人前後の比較的小規模な放送局でした。

巨大なスタジオ群と大電力送信所を持っていたJODK京城中央放送局やMTCY新京中央放送局などとは性格が異なります。

豊原局は、南樺太という一地域を担当する日本放送協会の地方局でした。

1941年11月21日 620kc・1kWで試験電波

1941年11月21日、豊原放送局の放送施設が許可されました。

呼出符号はJDAK。

送信出力は1kW。

同日から620kcで試験電波を発射します。豊原局に割り当てられた本来の設備は、この620kc・1kWでした。

1kWという出力は、当時の地方放送局として特別大きなものではありません。

しかし、樺太にはそれまで常設の中波放送局がなかったため、地域の放送環境を大きく改善することが期待されていました。

正式開局へ向けた準備が進められます。

ところが、その直前に状況が一変します。

1941年12月8日 開戦ニュースが事実上の第一声

1941年12月8日、太平洋戦争が始まりました。

豊原放送局はまだ正式開局前でした。

しかし、開戦を伝える臨時ニュースを樺太へ迅速に伝える必要が生じたため、急きょ仮放送を開始します。

結果として、太平洋戦争開戦のニュースがJDAK豊原放送局の事実上の第一声となりました。

正式開局を待って地域ニュースや文化番組を送り始めるという、本来想定されていた船出にはなりませんでした。

豊原放送局の歴史は、開局準備の最終段階で戦時放送へ組み込まれる形で始まったことになります。

1941年12月26日 正式開局

12月26日、豊原放送局は正式に開局しました。

開局式では豊原高等女学校の生徒による合唱が放送された記録も残っています。

しかし、送信条件は11月の試験放送とは大きく変わっていました。

予定されていた、

620kc
1kW

ではなく、

750kc
50W

で正式放送を開始しました。

出力は予定の20分の1です。

理由は太平洋戦争開戦に伴う電波管制でした。

なぜ1kWから50Wへ減力したのか

戦時下では、放送局の電波そのものが敵側航空機などの方向探知に利用される可能性が意識されました。

高出力の電波を一定地点から連続して発射すれば、その方角を測定する手掛かりとなる可能性があります。

そのため日本国内でも、戦争の進行に伴って放送局の同一周波数化、減力、送信所運用の変更など、さまざまな防空対策が採られました。

豊原はソ連との国境に近い地域です。

北緯50度線の北側はソ連領北樺太であり、地理的にも電波管制が強く意識される条件にありました。

せっかく1kW設備を完成させながら、50Wで正式放送を始めざるを得なかったという事実に、豊原放送局の特殊性が表れています。

1942年3月21日 空中への放送を停止

さらに異例の運用へ移ったのが1942年3月21日です。

豊原放送局は空中へ電波を放射する通常の中波放送を停止し、「電力線切替放送」へ移行しました。

これは現在一般にイメージされる有線放送とは少し異なります。

音声そのものを各家庭のスピーカーへ有線で届けるのではありません。

放送送信機が作る高周波信号をコンデンサなどを介して電灯線へ結合し、電力線を高周波の伝送路として利用します。

家庭側ではラジオ受信機を電灯線側へ接続して受信します。

つまり、

スタジオ

放送送信機

高周波信号

電灯線

家庭のラジオ受信機

という仕組みです。

日本ラジオ博物館も、豊原で50W送信機の出力をコンデンサを介して電灯線へ接続し、一般のラジオ受信機で受信する方式が使用されたと説明しています。

「ラジオ局なのに電波を空中へ出さない」という特殊性

一般のラジオ放送では、アンテナから電磁波を空間へ放射します。

しかし豊原では、戦時中の大半の期間、その電波を空中へ広く飛ばさず電力線へ送りました。

技術的には有線伝送ですが、家庭ではラジオ受信機を使って聴取します。

現在のケーブルテレビに近い考え方を、AMラジオの高周波信号で実現したものと考えると分かりやすいかもしれません。

戦争による電波管制と、既存のラジオ受信機を活用して住民への放送を続ける必要性。

この二つを両立させるために採用された方式でした。

豊原放送局の放送史で、技術的に最も特徴的な部分です。

豊原だけではなかった電力線放送

戦時中、日本国内では電話線や電灯線を利用する有線放送が複数都市で試みられました。

日本ラジオ博物館が紹介する資料では、電話線方式、電灯線方式、それらを組み合わせる方式がありました。

樺太でも1944年12月、大泊と真岡で電灯線を利用した有線放送が始まっています。

これによって、豊原だけではなく南樺太の主要都市でも、空中への大出力送信を抑えながら放送を届ける仕組みが整えられていきました。

ただし、大泊や真岡に独立した通常の中波放送局が開局したわけではありません。

豊原のJDAKとは性格が異なり、戦時下の有線放送設備として区別して考える必要があります。

1943年 樺太が「内地」へ編入

豊原放送局開局後の制度上の大きな変化が1943年です。

日本政府は1943年、樺太を当時の行政制度上の「内地」へ編入しました。

樺太庁の組織も変更され、鉄道については鉄道省、逓信関係については逓信省による直轄化が進められました。アジア歴史資料センターにも、内地編入に伴って逓信関係を逓信省が直接担当するようになったことが記録されています。

放送史という観点でも、この変化は重要です。

豊原放送局はもともと朝鮮や台湾の別法人型ではなく、日本放送協会自身の局でしたが、1943年以降は行政上も樺太が北海道などとともに「内地」の地域放送行政へ組み込まれていきます。

1943年12月 札幌中央放送局豊原分室

1943年12月1日には、札幌中央放送局豊原分室が設置されました。

これは豊原放送局がなくなったという意味ではありません。

日本放送協会の組織再編の中で、札幌中央放送局が北海道・樺太方面を統括する体制を強め、豊原に樺太地域を担当する分室を置いたものです。

豊原では地域番組を制作する一方、日本本土から送られる全国ニュースや中央番組を受ける役割も担っていました。

海峡を隔てた樺太にとって、ラジオは本土との情報的な接点でもありました。

豊原放送局は何を放送したのか

豊原放送局の放送内容を「戦争ニュースだけ」と考えるのも正確ではありません。

残された日本放送協会の史料や元職員の証言には、ニュースのほか、

音楽
演芸
落語
ドラマ
地域行事
教養番組

などが含まれていたことが確認されています。

樺太に暮らす住民にとって、ラジオは新聞より早く情報を得られるメディアであると同時に、家庭へ音楽や演芸を届ける娯楽メディアでもありました。

一方、豊原放送局が活動した1941年末から1945年は、ほぼ全期間が太平洋戦争と重なります。

大本営発表、戦況、政府発表、防空関連情報など戦争に関係する内容の重要性は次第に高まっていきました。

放送が娯楽・文化メディアとして存在したことと、戦時体制における政策・情報伝達手段として使用されたことは、どちらも史実として捉える必要があります。

1945年8月9日 ソ連軍が南樺太へ進攻

1945年8月9日、ソ連が日本に対して宣戦布告し、南樺太でも戦闘が始まりました。

アジア歴史資料センターは、南樺太が1943年に内地へ編入された後、1945年8月にソ連軍の進攻を受け、地上戦が行われた地域だったと整理しています。

北海道の樺太関係資料によると、8月12日には南樺太北部の住民が攻撃を受けながら南下し、13日には樺太庁による緊急疎開が始まりました。

この段階でラジオは単なる娯楽ではありません。

戦況。

避難。

行政からの通達。

交通。

生活に直接関係する情報を迅速に伝える手段となりました。

1945年8月15日 豊原から流れた終戦の詔書

1945年8月15日正午。

豊原放送局でも昭和天皇による戦争終結の詔書、いわゆる玉音放送が中継されました。

北海道の樺太関係資料にも「正午、豊原放送局中継で天皇の戦争終結の詔書を放送」と明記されています。

しかし南樺太では、この放送をもって戦闘が直ちに終了したわけではありません。

8月20日には真岡で戦闘が起き、22日になって知取で日ソ両軍の停戦協定が成立しました。

同じ8月22日には豊原駅前がソ連機による空襲を受け、北海道の資料では約100人が死亡、民家約400戸が焼失したとされています。

豊原放送局にとって「8月15日」は終点ではありませんでした。

1945年8月23日 日本側による最後の放送

8月23日、ソ連軍が豊原へ進駐しました。

この日、日本側による豊原放送局の放送は停止します。

日本放送協会の史料をもとにした記録では、日本側として最後に放送した内容の一つが、ソ連軍側から住民に対して出されたラジオ受信機提出命令だったとされています。

各家庭の受信機を指定場所へ持参するよう求める内容でした。

1941年12月8日。

JDAKが事実上の放送を始めたときに伝えたのは、太平洋戦争開戦のニュースでした。

1945年8月23日。

日本側最後の放送は、進駐したソ連軍側の命令を住民へ伝えるものになりました。

約3年8か月という短い豊原放送局の歴史は、戦争の開始から南樺太における日本側放送管理の終焉までと、ほぼ完全に重なっています。

8月23日の放送停止と8月28日の接収は分けて考える

豊原放送局の終わりについては、日付を一つだけ書くと誤解を招きます。

日本側による放送停止は1945年8月23日。

局舎と設備がソ連軍側の管理下へ移ったのは8月28日とする日本放送協会側の記録があります。

北海道大学北方資料データベースには、後に日本放送協会がまとめた「豊原放送局消滅報告」や「豊原放送局についての聞き書き」の存在も確認できます。

したがって本シリーズでは、

1945年8月23日 日本側の放送終了

1945年8月28日 日本側による施設管理終了

と区別します。

シリーズ①から⑥までの原則である「1945年8月15日以降も日本側の運営・管理が続いた場合は、その管理が終了するまで扱う」という基準に従えば、樺太編の終点は8月28日とするのが適切です。

JDAK豊原放送局を技術史として見る

豊原放送局を技術面だけで時系列に並べても、かなり異例の歴史であることが分かります。

時期周波数・方式出力状況
1936年8月臨時放送局JDAK資料要確認樺太拓殖共進会で試験・実況放送
1941年11月21日620kc1kW試験電波
1941年12月8日620kc系統1kW設備開戦に伴う緊急仮放送
1941年12月26日750kc50W正式開局
1942年3月21日以降電力線切替放送50W送信機空中への通常放送を停止
1944年12月大泊・真岡で電灯線放送小電力有線方式地域拡張
1945年8月23日日本側放送停止ソ連軍進駐
1945年8月28日施設接収日本側管理終了

本来の1kW局として安定した中波放送を続けることは、ほとんどできませんでした。

試験放送。

開戦。

減力。

そして電力線放送。

JDAKの技術史は、戦争によって放送設備の使われ方そのものが変化した過程でもあります。

豊原局に大電力送信設備がなかった理由

朝鮮編ではJODK京城第2放送50kW、台湾編では民雄100kW、中国編ではMTCY新京やXGAP北京100kWを取り上げました。

それらと比較すると、豊原の1kWという設計出力は非常に小さく見えます。

しかし放送の目的が違います。

京城、新京、北京、民雄は広域をカバーする基幹放送局、あるいは対外放送まで視野に入れた大電力局でした。

豊原は南樺太の地域放送局です。

人口規模や対象地域を考えれば、1kW級の地方局として設計すること自体は不自然ではありません。

むしろ技術史上注目すべきなのは、その1kW設備さえ戦時下では予定通り使用できなかったことです。

電力線放送は豊原放送局最大の技術的特徴

JDAKと聞くと、620kcや750kcという周波数に目が向きます。

しかし豊原放送局が通常の中波放送を行った期間は非常に短期間でした。

約3年8か月の歴史の大部分では、電力線を利用した放送が中心になります。

一般家庭のラジオ受信機を生かしながら、強い電波を空中へ放射しない。

これは放送技術が平時の「より遠くへ届ける」方向ではなく、戦時下の「電波を外へ漏らさず情報を届ける」という方向へ転換した例です。

送信出力を競う大電力放送史とは正反対の技術史として、非常に興味深い存在だと思います。

約3年8か月に凝縮された樺太のラジオ史

JDAK豊原放送局の正式な活動期間は長くありません。

それでも、その短い歴史の中には日本の放送史を考えるうえで重要な要素が数多く含まれています。

1920年代から続いた樺太での遠距離受信。

地域からの放送局設置要求。

1936年の臨時JDAK。

日本放送協会による正式局の建設。

620kc・1kWの設備。

開戦による750kc・50Wへの変更。

電波管制。

電力線切替放送。

札幌中央放送局との組織的な連携。

地域番組と全国番組。

戦時情報。

1945年8月15日の玉音放送。

そして8月23日の放送停止と28日の接収。

朝鮮や台湾では、日本側の統治が終わる際に放送設備が別の国家・組織へ引き継がれました。

中国大陸でも同様に、各地の送信所やスタジオが1945年以降の放送へ利用されていきます。

豊原放送局もまた、建物や設備そのものが8月28日に消えたわけではありません。

しかし、それ以降は「日本放送協会豊原放送局JDAK」の歴史ではありません。

接収された施設がその後どのように使用されたのか。

豊原放送局の職員はどうなったのか。

アナウンサーだった石坂幸子さんが、なぜ後にハバロフスクのモスクワ放送日本語課でマイクの前に立つことになったのか。島田顕氏の研究では、石坂さんが豊原放送局勤務を経て、戦後ハバロフスク放送局日本語課最初の女性アナウンサーとなったことが確認されています。

これら1945年以降の歴史は、第⑦部「戦後、日本が関わったラジオ局はどのような運命をたどったか」で改めて詳しく取り上げます。

資料を読む際に注意したい点

豊原放送局については、日本放送協会が1971年に刊行した『豊原放送局』放送史料集3が重要な基礎資料です。さらに「豊原放送局消滅報告」「豊原放送局についての聞き書き」などの史料が残されています。北海道大学北方資料データベースにもこれらの資料が登録されています。

周波数と出力については、「620kc・1kW」と「750kc・50W」という二種類の数字が存在しますが、矛盾ではありません。

620kc・1kWは本来の割り当てと試験放送時。

750kc・50Wは太平洋戦争開戦後の正式放送時です。

さらに1942年3月以降は空中への通常放送そのものを停止し、50W送信機を利用した電力線放送へ移っています。

そのため、豊原放送局を単純に「620kHz・1kW局」または「750kHz・50W局」とだけ紹介すると、実際の運用史を正確に表せません。

また、「閉局日」についても8月23日と8月28日の二つの日付を見掛けます。

8月23日は日本側による放送停止。

8月28日は局舎・施設の接収。

この違いを区別する必要があります。

参照資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です