日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史② 〜台湾編〜

JFAK台北放送局と台湾放送協会〜1925年から1945年までの放送網と技術史〜

日本統治時代の台湾では、1920年代からラジオ放送の実験が始まり、やがて台北(タイペイ)のJFAKを中心として、台南(タイナン)、台中(タイジョン)、嘉義(ジャーイー)、花蓮港(ホワリエン)へと放送網が広がっていきました。

その歴史で特に目を引くのが、嘉義県の民雄(ミンション)に建設された100kW中波送信所です。地方局が1kW前後だった時代に100kWという大電力設備が台湾に置かれ、日本本土との番組中継、島内ネットワーク、短波による対外放送、多言語放送が組み合わされていきました。現在の国家広播文物館には、日本統治時代に設置された日本電気製MB-15-A型100kW中波送信機が保存されています。

一方、台湾のラジオ放送を送信機やコールサインだけで説明することはできません。

放送はニュース、気象、音楽、演芸、教育、生活情報を届ける新しい大衆メディアであると同時に、日本統治下における言語政策や文化政策とも密接に関係しました。1937年の日中戦争開始以降は、戦況報道や政策情報の比重が高まり、中国大陸や東南アジアに向けた対外放送の役割も強くなっていきます。研究では、初期の番組が報道、教育、娯楽を基本としていた一方、1941年頃には報道系番組が放送時間の半分近くを占めるようになったことが示されています。

本稿では政治的評価を先に置くのではなく、確認できる放送史料、学術研究、文化資産資料を基に、台湾でラジオがどのように始まり、誰が運営し、どの周波数と送信設備を使い、どのような番組を送り、1945年に日本側の管理が終わるまでどのような発展を遂げたのかを時系列でたどります。

本稿で使用する地名と用語

歴史的な放送制度を説明するため、本文では原則として当時の日本側資料で使用された名称を用います。

台北(タイペイ)、台南(タイナン)、台中(タイジョン)、嘉義(ジャーイー)、民雄(ミンション)、花蓮港(現在の花蓮・ホワリエン)、基隆(キールン)などについては、現在の台湾での読み方が分かるようカタカナを併記します。

周波数は当時の資料に合わせて「kc」を使用する場合があります。1kcは現在の1kHzに相当します。

また、当時の資料に見られる「本島人」という呼称は原則として使用せず、本稿では「台湾人」と表記します。

1921年頃には海外放送の公開受信が行われていた

台湾でラジオが知られるようになったのは、台湾自身から放送電波が送信されるより前でした。

日本ラジオ博物館が『日本無線史』などから整理した資料によると、1921年頃には基隆(キールン)無線電信局が香港や上海方面から届く放送を受信し、基隆の公会堂などで一般に聞かせる普及活動を行っていました。

1922年には東京で実施された小電力の放送実験を基隆無線電信局で受信し、台北へ中継して公開したとの記録も残っています。遠距離伝搬を考えれば相当に難しい受信だったと考えられ、台湾における放送史の前史として興味深い事例です。

1925年6月17日 台湾から初めて放送電波を送信

台湾自身から電波を送り出す本格的な放送実験が行われたのは1925年です。

1925年6月17日から、台湾統治始政30周年記念事業の一環として、台湾総督府交通局逓信部が50W送信機による試験的な放送を10日間実施しました。

東京放送局JOAKが試験放送を始めた1925年3月22日から約3か月後です。

送信設備は台湾総督府庁舎内に設けられ、一室を簡易的なスタジオとして使用しました。台北新公園などには受信機が設置され、一般の人々が新しいメディアであるラジオを体験できるようにしています。

放送されたのは政治的な情報だけではありません。

新聞社から提供されたニュース、講演、唱歌や童謡、西洋音楽、日本音楽、台湾の伝統音楽、天気予報などが含まれていました。

現在のように家庭ごとに受信機が置かれていたわけではなく、一台の受信機や拡声設備の周囲に人々が集まって聞く「公開受信」が、台湾でラジオというメディアを知る重要な機会になっていました。

1928年 JFAK台北放送局が誕生

台湾の放送史を象徴する呼出符号がJFAKです。

台湾総督府交通局逓信部は庁舎内に1kW送信設備を設け、1928年11月1日から試験放送を開始しました。

同年12月22日には実験放送へ移行しています。

呼出符号はJFAKでした。

日本本土では、

東京 JOAK
大阪 JOBK
名古屋 JOCK

などJO系列の呼出符号が知られています。

台湾ではJF系列が使用され、その後、

台北 JFAK
台南 JFBK
台中 JFCK
嘉義 JFDK
花蓮港 JFEK

という形で展開していきます。

JFAK開局当初の設備は1kWでした。

これでは台湾北部を中心としたサービスエリアしか確保できません。

台湾は南北に長く、中央部には高い山岳地帯があります。中波の地表波だけで台北から台湾全域を安定してカバーすることは難しく、本格的な放送網を作るには送信設備の大出力化と地方局の設置が必要でした。

1930年 板橋放送所が完成

そこで台湾総督府が建設したのが、台北放送局板橋放送所です。

板橋(バンチャオ)放送所は1930年に完成しました。

新北市政府文化局も、現在残る板橋放送所を1930年完成の施設として紹介しています。建物は台湾総督府技師の栗山俊一が設計・監督したものです。

1931年1月15日から10kWによる本放送が始まりました。

送信機はドイツ・テレフンケン製で、初期の周波数は670kc。その後750kcで運用された記録があります。

1kWから10kWですから、送信出力は10倍になりました。

台北放送局はこの板橋送信所の完成によって、実験段階の放送局から本格的な中波放送局へ発展したことになります。

台湾放送協会は日本放送協会の台湾支部ではなかった

ここで朝鮮編と同様に、運営主体を明確にしておく必要があります。

台湾放送協会は「日本放送協会台湾支部」ではありません。

1931年2月1日、社団法人台湾放送協会が設立されました。

台湾総督府が放送設備と技術面を支え、台湾放送協会が放送局の運営、番組編成、聴取者対応、受信機普及などを担当する仕組みでした。

学術研究では、1928年の台北放送設備建設時に台湾総督府が設備費を予算化し、その後も設備・技術を支援する一方、1931年成立の台湾放送協会が放送局の運営と番組編成を担当したことが確認されています。

つまり基本構造は、

台湾総督府交通局逓信部

施設・技術・放送行政

台湾放送協会

番組制作・放送運行・聴取者業務・受信機普及

という関係でした。

台湾放送協会は聴取者から徴収する月額1円の聴取料を主な収入として運営されました。総督府から恒常的な運営費補助を受けるのではなく、聴取料を中心として事業を維持する仕組みだったことも研究から確認できます。

日本軍の直営放送局ではなかった

この点もシリーズ全体を比較するうえで重要です。

台湾の島内放送網は、後に取り上げる東南アジア占領地のように、日本陸軍や日本海軍の特定部隊が接収して直接運営した軍政放送局ではありません。

台湾総督府の行政制度の中で放送設備が整備され、台湾放送協会が実務を担っていました。

もちろん戦時期には軍関係の発表、戦況報道、慰問番組、政策情報などが放送され、対外宣伝にも利用されました。

しかし、

「日本軍の放送局」

と、

「戦時体制下で政府・総督府の政策に組み込まれた台湾放送協会」

は区別して考える必要があります。

この違いは、朝鮮編と東南アジア編を比較する際にも重要になります。

1932年 JFBK台南放送局が開局

台北の10kW局だけでは台湾南部の受信状況を十分に改善できませんでした。

そこで1932年4月1日、台南(タイナン)放送局JFBKが放送を開始します。

開局時の周波数は720kc、出力1kW。

後には1040kcへ変更された記録があります。

送信設備には、台北で使用されていた旧1kW設備が転用されたとされています。

台南市文化資産管理処も、旧台南放送局を日本統治時代の台湾放送網を構成した施設として記録しています。

台南局の開局によって、台湾放送網は北部中心の体制から南部へ広がりました。

1935年 JFCK台中放送局が開局

続いて1935年5月11日、台中(タイジョン)放送局JFCKが開局しました。

周波数580kc、出力1kWです。

台中市文化資産処も、台中放送局が1935年5月に正式使用を開始したことを確認しています。

これによって、

北部 台北JFAK
中部 台中JFCK
南部 台南JFBK

という基本的な島内放送網が形成されました。

当時の台湾では高い中央山脈が南北方向に延びています。

そのため一局を単純に大出力化するだけではなく、地域ごとに中波送信局を設けることには放送技術上の合理性がありました。

台湾放送協会の地方局は必ずしも番組制作局ではなかった

地方局が増えたからといって、各都市で大量の独自番組を制作していたわけではありません。

呂紹理氏の研究によると、台湾放送協会は台南と台中に支部を設置しましたが、これらの支部は主として業務・技術面を担当し、独立した番組制作部門を持っていませんでした。

番組制作は基本的に台北が担当し、地方局は中継放送を主体としていました。

つまり台湾の放送網は、

台北で番組制作

島内中継回線

台中・台南など

各地域へ中波送信

という現在のラジオネットワークに近い構成へ発展していたことになります。

日本本土からの番組はどのように台湾へ送ったのか

無線やBCLの視点から最も興味深いのが、日本本土から台湾への番組中継です。

現在なら光ファイバーやIP回線、衛星回線を利用できます。

しかし1920年代には、日本と台湾の間へ放送品質の音声を常時送れる回線はありませんでした。

そこで初期に使われたのが「放送を受信して放送する」方法でした。

日本本土の放送局

中波で海を越えて伝搬

台湾側で受信

音声を台北放送局へ入力

JFAKから再送信

という仕組みです。

1929年頃からは、日本放送協会熊本放送局の中波を主として受信しました。

現在でいう「放送波中継」です。

中波中継の弱点は台湾の空電だった

ところが中波による遠距離中継には大きな弱点があります。

台湾では夏季を中心に雷が多く、中波帯では強い空電雑音が発生します。

さらに日本から台湾への中波伝搬は時間帯や季節による電離層状態の影響を受けます。

日本ラジオ博物館が整理した資料では、日本本土から安定して中波を受信できたのは、おおむね10月から翌年3月までだったとされています。

つまり、夏になると日本からの番組中継が不安定になるという問題を抱えていました。

海を隔てた台湾ならではの放送技術上の課題です。

短波が日本と台湾を安定して結んだ

この問題を大きく改善したのが短波でした。

1934年以降、日本からの短波による外地向け放送が利用できるようになると、台湾側では国際電話株式会社の無線電話設備などを利用し、中波と短波のうち状態の良い回線を選択して番組を中継するようになります。

これによって一年を通して日本からの番組を受信しやすくなりました。

ネットワークは概念的に、

日本本土

中波または短波

台湾側受信施設

台北放送局

有線中継網

台中・台南など

中波放送

という構成になります。

日本本土からの中継番組が全放送時間の約40%を占めた時期もあったとされています。

現在の放送ネットワークへつながる発想が、1930年代にはすでに海を越えて運用されていました。

台湾から日本へ送られた番組もあった

番組の流れは日本から台湾への一方向だけではありませんでした。

台湾で制作した番組を日本へ送り、日本放送協会のネットワークで放送する交換放送も行われています。

つまり、

日本→台湾

だけではなく、

台湾→日本

という番組交換も存在していました。

台湾の音楽や文化を紹介する番組も制作されており、台湾の放送局を日本本土の単純な中継局と捉えるのは正確ではありません。

台湾放送協会ではどのような番組を放送していたのか

番組は大きく、

報道
教育
娯楽

の三分野に分けられました。

報道にはニュース、気象、時報、経済市況、物価、実況中継。

教育には講座、家庭生活、料理、体操、児童番組、語学など。

娯楽には日本音楽、西洋音楽、台湾音楽、演芸、ドラマなどが含まれていました。

台湾人向け番組としては、台湾語を使った「台湾講古」や、南管、北管、採茶歌謡など台湾の音楽を扱う番組も存在しました。

しかし、こうした番組が全体の大部分を占めていたわけではありません。

研究では、1930年代の放送政策が日本語普及などの行政目的を持っていた一方、台湾人聴取者を増やすため台湾側の文化や嗜好もある程度番組へ取り込む必要があったことが示されています。

「政策放送か娯楽放送か」の二者択一ではなく、双方が同じ番組編成の中に存在していたと見る必要があります。

台湾では広告放送も実験された

日本の戦前放送と比較すると特に興味深いのが広告放送です。

台湾放送協会では1930年代初頭、広告を番組制作へ組み込む試みが行われました。

現在の民間ラジオのように短いCMを大量に挿入する方式ではありません。

企業が番組や出演者の費用を負担し、提供企業を紹介したり、出演者が商品について触れたりする「間接広告」に近い方式でした。

花王石鹸や赤玉ポートワインなどがスポンサーになった記録があります。

研究では1931年に広告放送に関する試験的な制度が作られ、その後実施されたものの、日本新聞協会から台湾総督府への申し入れなどを受けて短期間で終了したことが確認されています。

日本本土のラジオが広告を基本的に持たなかった時代に、台湾でスポンサー番組に近い仕組みが試されたことは、日本の放送史全体から見ても興味深い事例です。

受信機を普及させることも放送事業だった

送信所を建てるだけでは放送は普及しません。

家庭にラジオ受信機が必要です。

台湾放送協会は主要都市に「相談所」を設け、受信機の修理、聴取相談、聴取料、受信機販売や普及活動などを扱いました。

1943年には相談所が15か所まで増えていたことが研究から確認されています。

日本国内と電源や放送方式が共通していたため、日本製の3球式、4球式などのラジオ受信機をそのまま使用することもできました。

日本ラジオ博物館には「JFAK 台湾放送局」の銘板を付けた七欧無線電気商会のナナオラ44型も残されています。

放送局、送信所、中継網、受信機普及を一体で考えることが、当時のラジオ政策を理解するうえで重要です。

聴取者は増えたが普及には大きな差があった

放送網の拡張とともに聴取契約数は増加しました。

研究資料に残る代表的な数値は次の通りです。

台湾人聴取者在台日本人聴取者合計
1928年1,5076,3577,864
1935年4,99218,03223,024
1937年12,02931,52243,551
1940年22,37439,85062,224
1941年38,10247,66885,770
1942年46,08652,11098,196
1943年46,26854,047100,315
1944年44,05055,19699,246

一見すると台湾人の聴取者も急速に増えています。

しかし人口比では大きな差がありました。

1938年の人口1,000人当たりの受信機保有は、台湾人約2.49台に対して在台日本人約104.6台。

1942年でも台湾人約7.69台に対して在台日本人約134.3台でした。

所得、受信機価格、電化状況、番組言語など複数の要因があり、放送網の拡大と住民への均等な普及は同じ意味ではありません。

1937年以降 台湾は対外放送拠点へ

1937年の日中戦争開始以降、台湾の地理的位置が放送政策上さらに重要になります。

台湾の西側には中国福建省。

南にはフィリピン、マレー半島、蘭領東印度などがあります。

台湾からは短波を利用して日本語だけでなく、福建語、中国語、英語などによる対外放送が行われ、後には広東語、マレー語、ベトナム語なども用いられました。

学術研究では、戦争期の海外向け番組として北京語、広東語、福建語、マレー語、ベトナム語、英語などが使われたことが確認されています。

台湾の放送は島内の聴取者へ向けたラジオだけではなく、中国大陸や東南アジアを対象とする広域放送システムの一部となっていきました。

1937年から建設された民雄100kW放送所

その象徴が、嘉義県民雄(ミンション)に建設された台北放送局民雄放送所です。

台湾の文化資産資料では、1937年に民雄が100kW放送所の建設地として選定されたことが確認されています。

施設は1940年に完成し、同年9月からJFAKの大電力送信拠点として運用されました。日本ラジオ博物館では1940年9月、旧稿で照合した資料では9月28日の放送開始とされています。

中波送信出力は100kW。

地方局の1kWと比較すれば100倍です。

送信機は日本電気製MB-15-A型。

台湾文化部の国家広播文物館には、現在もこの100kW中波送信機が保存されています。

単に大きな送信機を設置したのではありません。

100kW級の中波送信設備によって台湾島内だけでなく海上や中国大陸方向への広域伝搬を確保し、さらに短波設備を組み合わせることで、台湾を広域放送の送信拠点として機能させようとしていました。

中波100kWと短波10kWは役割が違う

技術的には、中波と短波を分けて考える必要があります。

民雄の100kW中波は主として地表波と夜間の空間波を利用する広域放送設備です。

一方、短波は電離層反射によって遠距離へ届きます。

当時の設備一覧には、

9695kc 10kW
10535kc 10kW

などの海外放送用短波設備も記録されています。

中波大電力局と短波海外放送を組み合わせることで、

台湾島内
中国大陸沿岸
東南アジア
さらに遠距離地域

という異なる対象地域へ電波を届けようとしたことが分かります。

1942年 嘉義放送局が放送網に加わる

民雄100kW放送所とは別に、嘉義(ジャーイー)には地方放送局が置かれました。

旧稿では嘉義放送局をJFDK、500W、1942年8月31日開局として整理しています。

一方、日本ラジオ博物館の旧資料整理には1941年8月とする記載があり、嘉義放送局については開局年月に史料差があります。

したがって、本稿では1942年8月31日を有力な年譜として採用しつつ、異なる記録が存在することを明記しておきます。

重要なのは、嘉義放送局と民雄放送所を混同しないことです。

嘉義放送局は地域向けの放送局。

民雄放送所は台北放送局JFAK系統の100kW大電力送信拠点です。

同じ嘉義地域に存在していましたが、放送史上の役割は異なります。

台湾の第二放送は実際に行われていた

台湾放送史で最も注意して扱う必要があるのが「第二放送」です。

日本ラジオ博物館など一部の後世資料では、台湾人向け第二放送は設備まで準備されたものの、戦況悪化によって実現しなかったとされています。

しかし、より具体的な番組史料を見ると状況が異なります。

呂紹理氏の研究には、1942年10月1日に「第二放送台」が設けられたとの記載があり、1943年1月の具体的な番組表まで掲載されています。

さらに中央研究院の台湾文献全文データベースでは、1942年10月1日付『台湾新聞』に「第二放送番組」が掲載されていることを確認できます。『興南新聞』にも同日、「ラジオ時局読本」を第二放送に設けるとの記事があります。

したがって「台湾の第二放送は実現しなかった」と断定することは困難です。

少なくとも1942年10月には第二放送が実際に編成されていたと見る方が、現存する番組表や新聞資料との整合性があります。

第二放送では何を放送していたのか

1943年1月の番組表では、

日本語・台湾語ニュース
客家語ニュース
学校放送
児童番組
語学講座
音楽
演芸
家庭向け番組
時事解説

などが確認できます。

年間放送時間も残っています。

1942年 647時間54分
1943年 1,709時間37分

です。

朝鮮では1933年から日本語第1放送と朝鮮語第2放送という二波体制が本格化しましたが、台湾で第二放送が実際の編成として確認できるのは戦争末期です。

朝鮮と台湾を同じ「日本統治地域の放送」として一括りにせず、制度形成の時期や言語編成の違いを見る必要があります。

戦争が進むにつれて報道番組が増加

1937年以降、台湾の番組編成は次第に戦時色を強めました。

戦況報道、政策説明、慰問番組、日本語教育、時局解説などが増加します。

呂紹理氏の研究では、初期には報道・教育・娯楽がおおむね4対3対3程度だったものが、日中戦争開始後は報道番組の比重が上がり、1941年には放送時間の半分近くに達していました。

一方、音楽、演芸、教育などが完全になくなったわけではありません。

ラジオを日常的に聞いてもらうためには、ニュースや政策情報だけではなく、聴取者が聞きたいと思う番組が必要だったからです。

戦時下の放送は、

情報伝達
統治政策
宣伝
教育
娯楽

が同じ放送時間の中で併存していたと見る方が実態に近いでしょう。

1944年 花蓮港放送局が台湾東部へ

台湾東部の放送網を補完したのが花蓮港放送局です。

現在の花蓮(ホワリエン)にあたります。

花蓮県文化局の文化資産資料では、建物が1944年4月15日に完成し、5月1日に正式に放送を開始したとされています。台湾で建設された最後の日本統治期放送局でもありました。

旧稿では呼出符号JFEK、出力100Wとして整理しています。

花蓮は台湾東部にあり、中央山脈によって西側の主要都市と隔てられています。

台北、台中、台南など西側の中波局から安定して電波を届けることが難しい地域であり、東部に独自の送信施設を設けることには明確な技術的理由がありました。

1945年時点の放送網を整理する

終戦期までに形成された台湾の主要な放送局・送信施設を整理すると、概ね次のようになります。

放送局・放送所呼出符号代表的な周波数出力主な役割
台北放送局板橋放送所JFAK750kc10kW台湾北部・基幹放送
台南放送局JFBK1040kc1kW台湾南部
台中放送局JFCK580kc1kW台湾中部
台北放送局民雄放送所JFAK670kc100kW大電力広域放送
嘉義放送局JFDKとする資料1070kcとする資料500W嘉義地域
花蓮港放送局JFEKとする資料資料差あり100Wとする資料台湾東部
台北海外向け短波JFAK9695kcなど10kW級中国・東南アジア方面

周波数は時期によって変更されています。

特に板橋JFAKは初期670kcから後の750kc、台南JFBKも720kcから1040kcという変遷があります。

したがって、この表は「全期間を通じて固定された周波数表」ではなく、戦前・戦中に確認できる代表値として見る必要があります。

送信出力から見える台湾放送網

出力を比較すると、ネットワークの階層がよく分かります。

花蓮港 100W級
嘉義 500W級
台南 1kW
台中 1kW
板橋 10kW
民雄 100kW

100Wから100kWまで、最大で1,000倍の差があります。

これは設備の優劣ではありません。

地域限定局には小電力。

北部基幹局には10kW。

広域放送には100kW。

さらに海を越える対外放送には短波。

目的に合わせて周波数と送信出力を組み合わせていました。

現在の無線技術の視点から見ても非常に興味深いネットワークです。

1945年8月15日 台湾でも終戦を伝えた

1945年8月15日、日本のポツダム宣言受諾を伝える放送は台湾でも中継されました。

しかし、8月15日に台湾放送協会の全施設が即座に停止したわけではありません。

放送設備そのものは残り、行政と放送組織の引き継ぎが行われるまで運用と管理が続きました。

この点は、シリーズ①朝鮮編と同じく、

「戦争が終わった日」

と、

「日本側の放送管理が終わった日」

を分けて考える必要があります。

日本側の放送管理は1945年秋まで続いた

1945年10月以降、中華民国国民政府側による台湾の放送施設接収が始まりました。

国立台湾図書館が収録する林平氏の研究では、戦後初期に中央広播事業管理処から担当者が台湾へ派遣され、台湾放送協会の設備が順次接収された過程が研究されています。

各地方局の接収日は必ずしも同じではありません。

たとえば台南の文化資産資料では1945年10月18日の接収が記録され、花蓮については11月27日の正式接収が記録されています。

したがって台湾放送協会の終わりを8月15日という一日だけで表現するのは正確ではありません。

8月15日に日本の戦争は終結へ向かい、その後10月から11月にかけて各放送施設の接収が進み、日本側による放送管理が順次終了したと整理するのが適切です。

本シリーズの台湾編は、ここを終点とします。

接収されたJFAK、JFBK、JFCK、民雄送信所などがその後どのような放送設備として利用されたのかについては、シリーズ⑦で改めて詳しく取り上げます。

台湾放送史を技術史として見る

台湾の放送史を技術面から時系列に並べると、その発展の速さがよく分かります。

1925年 50W実験放送
1928年 JFAK 1kW
1931年 板橋10kW
1932年 台南1kW
1935年 台中1kW
1930年代 日本本土との中波・短波中継網
1937年以降 海外向け多言語短波放送
1940年 民雄100kW
1942年 第二放送
1940年代 嘉義・花蓮港を含む地方網

一つの放送局が単純に増力した歴史ではありません。

島内中波局。

100kW大電力中波局。

海外向け短波。

有線中継。

日本本土からの放送波中継。

受信機相談所。

第一放送と第二放送。

これらが一つの放送システムとして組み合わされていきました。

民雄100kWだけを見ても台湾放送史は分からない

台湾の放送史では民雄100kW送信所が特に目立ちます。

しかし、その100kW設備だけを見ると全体像を見失います。

台湾北部には板橋10kW。

中央部には台中1kW。

南部には台南1kW。

東部には花蓮港の小電力局。

さらに台北を中心とした番組制作と島内中継網があり、日本本土とは中波・短波を組み合わせて接続されていました。

民雄100kWは、このネットワークの中に置かれた大電力送信拠点です。

だからこそ、その技術的価値は単なる「100kWという大きな数字」ではなく、台湾全体と周辺地域をどのように電波で結ぼうとしたのかというシステム設計の中で考える必要があります。

JFAKから見える日本と台湾の放送史

JFAKという四文字を起点に放送史をたどると、台湾のラジオが非常に多面的だったことが分かります。

ラジオはニュースを伝えました。

音楽や演芸を家庭へ届けました。

気象や物価など生活情報を伝えました。

日本本土の番組を台湾へ届けました。

台湾で作られた番組を日本へ送りました。

台湾語や客家語を使った番組も制作されました。

そして戦時期には戦況報道、政策情報、日本語教育、対外宣伝にも利用されました。

これらのうち一つだけを取り出して「台湾のラジオとはこういうものだった」と説明することはできません。

放送技術、大衆文化、統治政策、言語、戦争、そして実際にラジオを聞いていた人々の生活が重なった歴史です。

1925年の50W実験局から、わずか15年ほどで100kW級中波送信所まで発展した技術史。

同時に、誰にどの言語で何を伝えるのかが絶えず問われ続けた放送史。

その双方を見て初めて、台湾放送協会とJFAKの実像に近づくことができます。

資料を読む際に注意したい点

台湾の戦前・戦中放送史には、資料によって開局日、周波数、呼出符号などが異なる事例があります。

これは、

施設完成日
試験放送開始日
実験放送開始日
正式放送開始日
周波数変更日
設備増力日

が別々に記録されているためです。

特に嘉義放送局の開局時期には史料差があります。

また第二放送についても、「実現しなかった」とする後世の放送史資料がある一方、学術論文には1943年1月の番組表と放送時間が残り、1942年10月の新聞にも「第二放送番組」が掲載されています。

このため本稿では、資料が矛盾する場合に一方を無理に消すのではなく、史料の種類と具体性を比較し、差異そのものを記載しました。

歴史的な放送設備を研究する場合、「何年の資料に記載された周波数なのか」を必ず確認することが重要です。

参照資料

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