日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史③ 〜中国編〜

JQAK大連、MTCY新京、XGAP北京、XGOA南京、XGOI上海、JPHA香港まで〜中国大陸に広がった放送網と技術史〜

今回は「日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史」の第3回、中国編です。

ここでいう「中国」は、現在の中国大陸を地理的な範囲として考えます。したがって北京、天津、南京、上海、広州などだけではなく、当時日本が租借権を持っていた関東州、日本の強い政治的・軍事的影響下で1932年に成立した満洲国、英国統治から日本軍占領下へ移った香港、ポルトガル統治下にあった澳門も対象とします。

ただし、これらの地域を一括して「日本領」あるいは「日本の放送局」と考えることはできません。

関東州は日本の租借地、満洲国は日本と極めて密接な関係を持った別の政治体制、華北・華中・華南は日中戦争に伴って日本軍の占領・影響下に置かれた地域、香港は1941年12月から日本軍による軍政下、澳門は戦時中もポルトガル統治下にありました。

さらに放送の運営主体も、関東庁逓信局、関東軍特殊通信部、満洲電信電話株式会社、日本放送協会からの派遣要員、華北広播協会、中国放送協会、軍の報道放送組織、香港占領地総督部など、地域と年代によって異なります。

中国編を理解するには、現在の国境線だけを見るのではなく、「どの地域を、誰が、どの時期に、どのような制度で管理していたのか」を区別しながら放送史を追う必要があります。

また、中国のラジオ放送は日本の進出によって始まったものではありません。上海を中心に1920年代から放送局が誕生し、国民政府系放送局、地方政府系放送局、民間商業局、外国資本局が多数存在していました。その既存の放送文化と設備の上へ、1930年代以降、日本側が管理・接収・新設した放送網が重なっていったという順序で考えることが重要です。上海市黄浦区の資料では、1923年1月23日にXROが50W、波長200mで放送を開始しており、中国初期放送史の重要な起点として位置付けられています。

今回は地域別に、可能な限りその地域における放送の始まりから、日本側の放送管理が終了するまでを時系列で追っていきます。

中国大陸のラジオ放送史を読む前に

今回取り上げる地域と放送制度の違い

大まかな構造を先に整理しておきます。

地域日本側が関与した主な時期主な関係組織放送史上の特徴
関東州1925~1945年関東庁逓信局、満洲電信電話JQAK大連
満洲国1932~1945年関東軍特殊通信部、満洲国交通部、満洲電信電話MTCY新京、長波100kW、多言語二重放送
華北1937~1945年北支那方面軍、日本放送協会派遣要員、華北広播協会XGAP北京100kW
蒙疆1937~1945年関東軍、駐蒙軍、現地行政機関XGCA張家口、中波・短波放送
華中1937~1945年日本軍報道放送組織、中国放送協会南京、上海、漢口など
華南1938~1945年日本軍、台湾放送協会など厦門、広州
香港1941~1945年第23軍軍政庁、香港占領地総督部GOW・ZBW・ZEKからJPHAへ
澳門日本側直接運営なしポルトガル統治機構、澳門廣播會戦時中も非日本管理の放送を継続

この区別を明確にしておかないと、満洲電電のMTCYと日本軍占領下の香港放送局JPHAが、あたかも同じ制度によって運営された局であるかのような誤解を生みます。

実際には成立過程も法的立場も運営主体も異なります。

中国の放送は日本が関与する以前から発達していた

上海では1923年1月23日、中国無線電公司と英字紙『大陸報』が関係したXROが正式放送を開始しました。出力50W、波長200m、毎晩1時間程度の放送で、ニュース、音楽、演説などを編成していました。

その後、中国系企業、外国資本、政府系など多数の局が相次いで開局します。1930年代の上海は、世界的に見ても珍しいほど多数の放送局が競合する都市になりました。日本側の『ラジオ年鑑』などを整理した資料では、日中戦争直前には中国全体で80局以上、上海だけでも約35局に達していたとされています。

南京では国民政府の中央広播電台が存在し、政府によるニュース、教育、文化、政策放送などが行われました。したがって1937年以降、日本軍が中国各地の放送設備を掌握していく過程は、「放送が存在しない地域へ日本がラジオを持ち込んだ」という構図ではなく、既存の中国側・外国系放送施設を接収、統合、再編しながら、日本側の新しい設備を追加していったものとして理解する必要があります。

一方、中国共産党側も1940年からラジオ放送を開始しており、戦時下の中国では国民政府、日本側管理地域、中国共産党など、それぞれがラジオを情報伝達、宣伝、心理戦に利用していました。梅村卓氏の研究も、当時のラジオが国境や戦線を越えて情報を届けられる最新のメディアとして重視されたことを指摘しています。

関東州編 〜JQAK大連放送局と日本側放送の出発点〜

関東州という地域

日露戦争後の1905年、ポーツマス条約によってロシアが持っていた旅順・大連地域の租借権などが日本へ移りました。

この地域は関東州として日本側の行政下に置かれ、通信行政は関東庁などが担当しました。

中国大陸における日本側の本格的なラジオ放送は、満洲国成立よりかなり早い1925年、この大連から始まります。

1925年 JQAK大連放送局が放送開始

1925年7月、関東庁逓信局は大連放送局を設置しました。

同年8月9日に放送を開始し、呼出符号はJQAK、出力は500Wでした。

演奏所は大連中央電話局、現在の中山広場10号付近に置かれ、送信設備は沙河口方面の無線施設に置かれていました。

大連側の公的メディア資料にも、1925年8月9日、500W、JQAKで放送を開始したことが記録されています。

呼出符号を見ると、

東京 JOAK
大阪 JOBK
名古屋 JOCK
京城 JODK
大連 JQAK

となります。

JQAKは満洲国成立後に満洲電電へ移管されても変更されませんでした。MTCY、MTBYなど独自のMT系列が使用された満洲国側の局とは、成立の歴史が異なることを呼出符号そのものが示しています。

1933年 満洲電電の放送網へ

1933年9月に満洲電信電話株式会社が本格的に発足すると、奉天、新京、哈爾浜とともに大連放送局も同社のネットワークへ組み込まれました。

ただし、関東州そのものが満洲国へ編入されたわけではありません。

大連局の放送事業を満洲電電が担当するという構造であり、行政上の関東州と満洲国を混同しないことが重要です。

1936年 沙河口に完成した本格的放送施設

大連放送局の技術史で特に興味深いのが、1936年に完成した新局舎です。

所在地は当時の聖徳街三丁目245番地、現在の大連市沙河口区民権街162号。

現地資料によると敷地面積は5,582.77平方メートル、建築面積1,401.55平方メートル。鉄筋コンクリート造3階建てで、4つの演奏室、地下電源設備、1階送信室、2階調整室・演奏室などを備えていました。

さらに高さ78.15mの自立式鉄塔4基と放射状の接地網が整備され、1936年11月から1kWで放送しています。

現在のAM放送局と同様、送信設備、調整設備、演奏設備、電源設備、アンテナ設備を一つのシステムとして構成した本格的な放送施設だったことが分かります。

第1放送と第2放送

1940年代前半の代表的な設備は、

第1放送 760kc・1kW
第2放送 1065kc・1kW

でした。

第1放送は日本語を中心、第2放送は中国語を中心とする編成でした。

大連局で使用された送信設備には日本電気製機器が含まれていたとする技術資料があります。満洲電電の他局では東京電気、沖電気、外国メーカー製送信機なども使われており、大連もこの多様な送信設備体系の一部を構成しました。

番組と日本本土との関係

大連は日本人居住者の多い都市だったため、日本語第1放送には日本本土からの中継が重要な位置を占めました。

一方、中国語第2放送も設けられ、地域住民向けの情報・娯楽番組を放送しています。

ただし、今回確認できた公開一次資料だけでは、大連局の年間番組表を年代別に完全復元することはできません。ニュース、音楽、講演、教育などが編成されていたことは確認できますが、特定年度の番組比率については推測で補わないことにします。

1945年8月 JQAKの日本側運用終了

1945年8月15日、大連中央放送局は東京からの降伏に関する放送を中継しました。

現地資料では同日夜に文字による番組を停止し、8月24日にソ連軍が局を占領して放送を停止したと記録されています。

1925年8月9日に始まった日本側の大連放送は、約20年で終了しました。

設備と職員がその後どうなったのかについては、シリーズ⑦で改めて取り上げます。

満洲国編 〜MTCY新京中央放送局と満洲電信電話〜

満洲国成立以前からあった奉天・哈爾浜の放送

中国東北部の放送史は1932年から始まるものではありません。

白戸健一郎氏の研究によれば、1920年代には関東州の大連だけでなく、東三省政府側による奉天広播電台、哈爾浜広播電台も存在していました。関東軍は満洲事変後の1931年10月に奉天広播電台、1932年7月には哈爾浜広播電台を接収しています。

したがって満洲国の放送網は、

既存の中国側放送局
関東州のJQAK
関東軍が接収した設備
新規に建設された大電力送信所

を段階的に統合・拡張して形成されたものです。

関東軍特殊通信部と新京放送局

新京、現在の長春における日本側放送の起点には、関東軍特殊通信部がありました。

1932年、関東軍司令部の移転とともに特殊通信部も新京へ移り、奉天放送局新京演奏所を設置しました。

当初は新京で制作した音声を通信回線で奉天へ送り、奉天側の送信設備から電波に乗せる方法が採られました。

1933年4月には旧東北無線長春電台の設備を改修して、新京に独自の放送局が組織されます。

旧稿で整理していた系譜を改めて書くと、

関東軍特殊通信部による新京演奏所
→ 新京放送局
→ 満洲電信電話へ移管
→ MTCY
→ 新京中央放送局

という流れになります。

1933年 満洲電信電話株式会社の成立

1933年9月1日、満洲電信電話株式会社が本格発足しました。

満洲電電の最大の特徴は、電信、電話、無線通信、ラジオ放送を同じ会社が扱ったことです。

白戸氏は満洲電電を、日本政府と満洲国政府の「二重国籍」を持つ半官半民の国策会社として整理しています。設立時には大連、奉天、哈爾浜、新京の4局を統合し、放送事業を開始しました。

創業時の聴取者は6,000弱でした。

その後、

1937年 約8万
1938年 約12万
1939年 約23万
1940年 約34万
1941年 約45万

へ増加し、終戦時には公称70万に達したとされています。

ただし聴取者は新京、奉天、哈爾浜、大連の四大都市へ集中しており、農村部まで均等にラジオが普及していたわけではありません。

MTCYという呼出符号

新京放送局は初期にMTAYを使用し、その後MTCYへ変更されました。

満洲電電では奉天MTBY、哈爾浜MTFY、牡丹江MTGYなどMT系列の呼出符号が用いられています。

一方、大連JQAKのように満洲電電設立以前から存在した局では従来の呼出符号を残しました。

MTCYの「C」をCapitalなどと解釈する説明を見掛けることがありますが、その語源を明示する確実な一次資料は今回も確認できませんでした。確証のない略語解釈は避けた方がよいでしょう。

1934年 100kW送信機が新京へ

MTCYを象徴する設備が100kW送信機です。

ここは旧稿から重要な修正があります。

白戸氏が満洲電電の『業務資料』『統計年報』などを検証した研究によれば、新京放送局は1934年11月に100kW放送機を設置しました。1936年11月にさらに10kW放送機を追加し、10kW側を日本語中心、100kW側を中国語中心として本格的な言語別二重放送に移行しています。

終戦期の代表値として知られているのが、

第1放送 560kc・10kW
第2放送 180kc・100kW設備

です。

180kHz・100kWという長波放送

180kc、現在の180kHzは長波帯です。

波長を計算すると約1,667m。

現在の日本のAMラジオで使用される中波帯よりはるかに長い波長です。

長波は地表面に沿って伝搬する地表波を比較的広範囲へ安定して届けられる特性があり、広大な中国東北部を一局でカバーするという目的には技術的な合理性があります。

一方、波長が非常に長いため、効率よく放射するには大規模なアンテナ設備が必要です。また受信機側も180kHzに対応していなければなりません。

新京の100kW設備は1934年当時、東アジア最大級の出力でした。

100kWと50kWの史料差

MTCY第2放送については重要な史料差があります。

満洲電電側の設備資料では100kW送信機の設置が確認できます。

ところが中国共産党が戦後接収した旧満洲国放送設備を整理した1944年10月1日現在の施設表では、新京第2放送が180kHz・50kWと記載されています。梅村氏もこの史料を紹介しています。

可能性としては、

100kW送信設備を50kWで運用していた
戦争末期に減力していた
設備定格と実運用出力が異なる
資料作成上の数値差

などが考えられますが、現在確認できる資料だけでは確定できません。

したがって、「100kW設備として建設された。1944年には50kWとする運用・施設記録もある」とするのが妥当です。

演奏所と送信所

新京では番組制作を行う演奏設備と、大電力の送信設備を分離していました。

旧技術資料では演奏設備が新京特別市大同大街601号の満洲電電本社内、送信設備が市街地から離れた寛城子方面に置かれたとされています。

これは現在のAM局にも通じる、

演奏所・スタジオ
→ 中継回線
→ 郊外送信所
→ アンテナ

という構成です。

旧稿では第1放送に東京電気、第2放送100kW長波設備に日本電気を使用したと整理していました。また奉天ではSFRと東京電気、哈爾浜ではマルコーニ系、東京無線、東京電気、山中電機など、多様なメーカーの送信設備が使用されていたとする技術記録があります。

1940年代の主要放送局

終戦前の代表的な設備を整理すると、次のようになります。

放送局呼出符号第1放送第2・第3放送
新京中央MTCY560kc・10kW180kc・100kW設備
奉天中央MTBY890kc・1kW1250kc・1kW
哈爾浜中央MTFY674kc・3kW1055kc・1kW、1280kc・250W
大連中央JQAK760kc・1kW1065kc・1kW
牡丹江MTGY745kc・1kW1015kc・1kW
安東JQBKとする資料805kc・50W1260kc・50W
承徳MTHY915kc・50W1170kc・1kW
延吉MTKY785kc・200W級第2放送あり
斉斉哈爾MTLY835kc・1kW1075kc・50W
海拉爾MTRY1005kc・500W1260kc・500W
営口MTPY1025kc・50W1270kc・50W
錦県MTOY575kc・100W955kc・100W
通化MTTY1035kc・50W725kc・50W
北安MTUY725kc・20W1025kc・20W

これらは各時期の代表値であり、周波数変更や増力があります。

白戸氏の研究によると、「放送施設拡充五カ年計画」では20局・38波、1942年までに50万聴取者を目標としました。1942年末には18局すべてが二重放送設備を備え、計画はおおむね達成されたと評価されています。

大電力局だけで満洲全域を覆うのではなく、10W、20W、50Wといった標準化された小電力局を地方都市へ配置したことも技術的に重要です。

多言語放送

満洲電電の特徴は二重放送だけではありません。

基本的には、

第1放送 日本語
第2放送 中国語

でしたが、地域によって朝鮮語、モンゴル語、ロシア語などが使用されました。

延吉では朝鮮語、海拉爾ではモンゴル語、国際都市だった哈爾浜ではロシア語第3放送まで設けられています。

放送時間全体を見ると、1939年には日本語60%、中国語35%でしたが、1941年には日本語48%、中国語45%まで接近しました。

1941年の新京中央放送局では、第1放送216,754分に対し、第2放送225,703分となり、中国語中心の第2放送の方が年間放送時間で上回っています。

第1放送と第2放送では番組思想も違った

日本語と中国語を単に翻訳して同じ内容を送ったわけではありません。

第1放送では日本本土からの中継、ニュース、政策・教養番組などの比重が高く、第2放送では中国語圏の聴取者に日常的にラジオを聞いてもらうため、地域の音楽、旧劇、演芸などの娯楽性が重視されました。

1941年の放送方針では、第1放送に「省市政の時間」「ニュース解説」「在満学校放送」「地方だより」などを設置。一方、第2放送では昼間の講座番組の一部を整理し、夜間の演芸番組を重視する方向へ改編されています。

満洲国弘報処側の資料にも、政策情報を過剰に番組へ盛り込むと聴取者が離れるという認識があり、演芸や音楽がラジオの魅力を保つため不可欠と考えられていたことが確認できます。

つまり「宣伝放送」と「娯楽放送」は完全に別々のものではなく、娯楽によって聴取習慣を作り、その中でニュースや政策情報を届けるという構造でもありました。

広告放送

満洲電電では1936年11月から広告放送も行われました。

広告原稿を直接読み上げる方法と、企業が提供する番組に広告を組み込む方法があり、現在のスポットCMと提供番組に近い仕組みです。

ただし日中戦争後、消費節約や勤倹貯蓄が求められる中で「広告放送運用制限要綱」が設けられ、広告放送は縮小していきました。

「戦前の日本のラジオには広告がなかった」という日本放送協会中心の理解だけでは、当時の日本関係放送全体は説明できないことが分かります。

日本本土、朝鮮、華北との番組中継

満洲電電は単独の放送圏ではありません。

日本放送協会が制作した番組を短波などで満洲側が受信し、新京や地方局から再送信する仕組みが形成されました。

さらに朝鮮放送協会、華北側放送局とも番組交換が行われています。

2026年にNHK放送文化研究所が発表した「東亜放送」の研究でも、日本本土の番組を短波で朝鮮、台湾、満洲へ送り、日中戦争後には華北・華中へ中継範囲が広がったことが確認されています。

短波海外放送

新京には国内向け長波・中波だけでなく、海外向け短波設備も設けられました。

代表的な記録では、

6.125MHz 20kW
9.545MHz 20kW
11.775MHz 20kW
15.330MHz 20kW

などがあり、極東、南方、欧州方面への放送に使用されました。

大連にもJDYなどの短波設備が確認されています。

長波、中波、短波、小電力地方局を一つの事業者が使い分けていたことが、満洲電電の放送技術史上の大きな特徴です。

1945年 満洲電電の終焉

1945年8月9日のソ連対日参戦後、放送局は相次いで日本側の管理を離れます。

哈爾浜では8月18日、ソ連軍と中国共産党側が放送局を接収しました。そこには3kW、1kW、250Wの送信機があり、接収後それぞれ異なる用途で使用されたことが梅村氏の研究で確認されています。

満洲電電の放送網が戦後中国東北部の放送へどのようにつながったのかは、シリーズ⑦で詳しく扱います。

華北編 〜XGAP北京100kWと華北広播協会〜

1937年 日本軍占領下で始まった放送再編

盧溝橋事件後の1937年8月31日、日本陸軍は北支那方面軍を編成しました。同軍は華北一帯の軍事作戦と、その後の占領地域の治安・政治工作に関与します。

放送については、北京、天津などの既存施設を基礎に、新たな放送網の構築が進められました。

日本放送協会から技術者や放送要員が派遣され、満洲電電も初期の施設整備に関与しました。

後世に当時資料を整理した研究では、北支那方面軍が1937年11月に放送網整備の方針をまとめ、北京の大電力放送局を基幹とする計画を日本放送協会側に担当させたとされています。ただし、現在公開されている一次資料だけでは、放送実務を担当した軍内部の部署を全期間にわたり一つに限定することはできません。

1937年8月 XGBP天津

華北で早期に再開された局の一つが天津です。

代表的な設備は、

第1放送 XGBP 630kc・500W 中国語
第2・別系統 日本語100W級

とされています。

天津では中国語放送を大出力側、日本語を小出力側に置きました。

これは満洲国とは逆の構造です。

満洲では日本人居住者も多数いたため日本語第1放送が重視されましたが、華北では圧倒的多数を占める中国人住民へ届かせる必要があるため、中国語放送を大出力化する設計が採られました。

1938年1月1日 XGAP北京中央広播電台

華北放送網の中心となったのがXGAP北京中央広播電台です。

1938年1月1日に本格的な放送を開始。

中国語の第1放送と、日本語の第2放送を持ちました。

第1放送は当初50kWでしたが、1940年に100kWへ増力されています。

1940年代前半の代表設備は、

第1放送 640kc・100kW
第2放送 950kc・500W
広告放送 1350kc・500W

です。

100kWという出力は、新京MTCYの長波100kWと並ぶ、中国大陸に存在した日本関係放送設備として最大級のものでした。

ただし新京は180kHzの長波、北京は640kHzの中波です。

同じ100kWでも、電波伝搬、アンテナ設計、対象地域は大きく異なります。

華北主要局一覧

1940年代前半の代表値を整理すると次のようになります。

都市呼出符号中国語系放送日本語系放送
北京XGAP640kc・100kW950kc・500W
天津XGBP630kc・500W100W級
済南XGCP860kc・1kW1100kc・100W
青島XGDP1150kc・500W700kc・50W
石門XGEP780kc・500W100W級
太原XGFP720kc・500W1050kc・100W
唐山XGGP1160kc・100W50W級
開封XGKP680kc・500W50W級
運城XGJP810kc・500W100W級
保定不詳100W級100W級

周波数と出力は変更があり、『ラジオ年鑑』『日本無線史』などから整理された1940年代前半の代表値です。

送信機には東京電気、日本電気、沖電気、東京無線電機など日本メーカー製設備が多数使用されました。

1940年 華北広播協会の成立

1940年6月29日、華北政務委員会から華北広播協会条例が公布されました。

それまで北京中央広播電台を中心に、日本放送協会から派遣された要員などが運営していた放送網は、華北広播協会の運営へ移されます。

形式上は現地側の放送事業体となりましたが、日本側の技術、人員、政策との関係がなくなったわけではありません。

ここでも「日本放送協会北京局」と呼ぶのは正確ではありません。

華北標準型受信機

送信所だけでなく、受信機も放送政策の対象でした。

中国では地域によって電源事情が日本と異なります。

そのため日本国内向け受信機を単純に持ち込むのではなく、110V・220V兼用、50Hz電源などに対応した「北支標準型受信機」「華北標準型受信機」が供給されました。

初期には店舗などへラジオを貸し出し、多人数が一台の受信機を囲んで聴く共同聴取も行われました。

放送政策とは、送信機を設置することだけではなく、

送信所
周波数
中継回線
受信機
聴取制度

まで含むシステムだったことが分かります。

1945年 華北放送網の日本側管理終了へ

1945年8月、日本の降伏後も各都市の放送設備はその場に残りました。

日本軍と中国側との正式な降伏文書調印は9月9日に南京で行われ、その後各地の施設接収が進みます。

したがって華北の放送局についても、一律に「8月15日閉局」とするのは適切ではありません。

蒙疆編 〜XGCA張家口と中波・短波ネットワーク〜

張家口を中心とした放送網

現在の内蒙古自治区周辺でも1937年以降、張家口を中心とする放送網が形成されました。

張家口、大同、厚和、包頭などに中波放送局が配置されました。

代表的な設備は、

放送局周波数出力
張家口第1 XGCA843kc500W
張家口第2 XGCA1150kc50W
張家口別系統1000kc50W
大同第1800kc500W
大同第21314kc50W
厚和815kc500W
包頭510kc50W

とされています。

張家口に10kW短波送信機

張家口で特に興味深いのは短波設備です。

1940年代には、

約9MHz 10kW
約6MHz 10kW

の短波送信設備が置かれ、東京や満洲との中継、広域放送に利用されました。

さらに3MHz帯・200W級設備の記録もあります。

中波で周辺住民へ放送し、短波で遠距離の放送局や日本本土と接続するという二層構造です。

街頭スピーカーと有線放送

この地域では受信機の家庭普及が十分ではなかったため、電話線などを利用した有線放送も重視されました。

当時資料を整理した記録では268か所の街頭スピーカーが設置され、約8,000人が聴取していたとされています。

数十Wの放送局でも、都市内の共同聴取施設と組み合わせれば情報伝達媒体として機能します。

単純に送信出力だけで放送網の規模を判断できない例です。

華中編 〜南京・上海・漢口と中国放送協会〜

上海は日中戦争以前から巨大なラジオ都市だった

華中放送史で最も複雑なのが上海です。

1920年代から多数の放送局が存在し、中国系商業局、外国資本局、政府系局が競合していました。

租界という上海特有の政治環境もあり、外国人・中国人・日本人向けの異なる放送が同じ都市から送信されていました。

1936年 XQHA大東放送局

日本人居留民向け放送も日中戦争以前から存在しました。

1936年、日本側関係機関が関与してXQHA大東放送局が成立し、日本語を中心とする放送を行いました。

孫安石氏の研究では、上海に日本語放送局を持とうとする日本人居留民側の要求と、日本の外務省、逓信省、日本放送協会などの関係が詳しく検証されています。

XQHAは、1937年以降に日本軍が接収した放送局とは成立の経緯が異なります。

1937年以降 軍管理へ

上海、南京などが日本軍の占領下に入ると、既存放送局の接収と再編が進みました。

1939年前後には、

大上海 XOJB
南京 XOJC
漢口 XOJD
杭州 XOJF
蘇州 XOJH

などの呼出符号が確認されています。

華中では軍の報道・放送組織が直接放送管理に関与した時期があり、朝鮮放送協会や台湾放送協会とは組織構造が異なります。

当時資料の整理では、中支那派遣軍の報道放送部門による管理や、「広播無線電台監督処」による放送局統制が行われたことが確認されています。

南京放送局

国民政府が重慶へ移動した後、南京の既存放送設備も日本軍側の管理下へ入りました。

その後、汪兆銘政権の成立とともに放送制度は再編されます。

南京は華中放送網の中央拠点として位置付けられていきます。

1940~1941年 中国放送協会へ

1940年12月、中国放送協会が設立され、1941年2月から華中の主要放送局が同協会へ移されました。

南京を中央局として、上海、漢口、杭州、蘇州、寧波などを結ぶ放送網が形成されました。

形式上は現地政府側の放送組織となりましたが、日本軍との協定や日本側技術者・放送関係者との関係は続いていました。

華中主要局の設備

終戦前の代表値は次の通りです。

放送局呼出符号周波数出力
南京第1XGOA660kc10kW
南京第2XGOA1000kc500W
上海XGOI900kc10kW級
大東・上海XQHA580kc200W
上海XMHA500kc1kW
上海XMHC700kc500W
漢口第1XGOW1000kc1kW
漢口第2XGOW600kc200W
杭州XGOD990kc50W
蘇州XGOJ1330kc50W
寧波XGON1110kc50W

周波数・出力は時期による変更があり、1940年代前半の代表値です。

南京10kWのような主要局の周囲に、50W級の地方局を配置する構成は、満洲電電や朝鮮放送協会にも見られた「基幹局+地方小電力局」という考え方に通じます。

上海は短波海外放送拠点でもあった

XGOI上海では中波だけでなく短波も使用されました。

確認されている周波数には、

9.300MHz
9.665MHz

などがあります。

番組言語も中国語、日本語、英語、広東語だけではなく、マレー語、フランス語、オランダ語などが含まれていました。

つまり上海は、

上海周辺への地域放送
日本人居留民向け日本語放送
中国語圏向け放送
東南アジア方面への短波放送

が重なる国際的な放送拠点でした。

漢口にも短波設備

漢口XGOWでも6.100MHzなどの短波設備が確認されています。

長江流域の主要都市である漢口は、南京・上海とは異なる内陸側の放送・通信拠点として機能しました。

地域語を使った放送

華中で興味深いのは、中国語を一種類の言語として扱っていなかったことです。

上海語、杭州語、蘇州語、寧波語、広東語など、地域の聴取者に合わせた放送が存在しました。

日本語だけ、標準中国語だけを送ればよいという発想ではなく、聴取者が日常的に理解できる言葉を使う必要があったからです。

放送が宣伝・政策伝達の媒体として機能するためにも、まず聴取してもらうことが必要でした。

日本本土からの「東亜放送」

華中の放送局も日本本土と切り離されていたわけではありません。

日本放送協会が制作した番組を短波で送り、上海や南京などで受信し、中波から再送信する仕組みが使われました。

NHK放送文化研究所の2026年の研究によると、こうした広域中継は「東亜放送」などと呼ばれ、日本本土の番組をそのまま流す「内地延長論」と、現地住民向けの独自番組を重視する「独自編成論」が関係者の間で対立していました。

実際の放送はその中間となり、日本本土からのニュースや番組と、現地制作の音楽・演芸・生活情報などを組み合わせていました。

華南編 〜厦門・広州と台湾放送協会の関与〜

台湾との地理的な近さ

華南放送史では台湾との関係を無視できません。

台湾は福建省の対岸にあり、台湾放送協会は1937年以降、福建語、北京語、英語、広東語などの海外放送を強化していました。

この経験と設備・人材が華南方面の放送にも利用されます。

1938年 厦門

台湾放送協会の年譜を整理した資料では、1938年8月15日、南支那派遣軍が台湾放送協会へ委託する形で厦門広播電台を設けたとされます。

XOJE、XOJFという呼出符号が伝えられ、台北から番組を中継した記録もあります。

ただし、今回調査した公的資料・学術論文だけでは、厦門局について全期間の周波数、出力、送信機メーカー、正確な送信地点を十分な確度で確定できませんでした。

そのため数値を推測で埋めることはしません。

1939年 広州

同じ年譜では1939年4月15日、広州無線電播音台が開設され、呼出符号はXGOKとされています。

こちらも台湾放送協会が運営協力したとされます。

華南については華北・華中に比べ技術史料の公開が少なく、『台湾放送協会会報』『ラジオ年鑑』、軍関係一次史料をさらに照合する余地があります。

「局が存在した」ことと、「全技術諸元を確定できる」ことは分けて考える必要があります。

香港編 〜GOW・ZBW・ZEKからJPHAへ〜

1928年 GOWから始まった香港政府放送

香港のラジオ放送も日本軍占領以前から存在しました。

香港政府の放送史資料によると、1928年6月、香港政府は民間のHong Kong Radio Societyの放送活動を引き継ぎ、呼出符号GOWで政府放送を開始しました。

これが現在の香港電台RTHKへつながる公的放送の起点とされています。

ZBWとZEK

その後、英語系放送にZBW、中国語系放送にZEKが使用されました。

香港政府系の資料にも、ZBWが英語チャンネル、ZEKが中国語チャンネルだったことが確認できます。

英語ニュースや音楽だけではなく、広東語放送、粤劇、文化・生活情報など、香港社会の言語環境に合わせた番組が発達しました。

つまり日本軍が1941年に香港へ進攻した時点で、香港にはすでに長い放送経験とスタジオ・送信設備・放送人材が存在していました。

1941年12月25日 香港占領

1941年12月25日、英国側が降伏し、日本軍による香港占領が始まりました。

当初は第23軍軍政庁が統治を担当します。

1942年2月19日に香港占領地総督部が編成され、2月20日から第23軍軍政庁の業務を引き継ぎました。初代総督は磯谷廉介中将でした。

ここでは「日本軍が香港放送局を運営した」という一文だけで済ませるのではなく、

第23軍軍政庁
→ 香港占領地総督部

という軍政機構の変化を押さえておく必要があります。

香港憲兵隊とラジオの統制

香港憲兵隊は治安維持だけではなく、通信、出版、ラジオ、写真などの検閲・取締も担当しました。

アジア歴史資料センターに残る「香督指第一号」関係資料では、香港憲兵隊の任務として、郵便、通信、ラジオ、写真など軍事・治安に影響する事項の検閲と取締が明記されています。

放送設備の実務運営と、放送・受信を含む情報統制は別の機構で行われていた点も重要です。

1942年 JPHA香港放送局

占領後、既存の放送施設は日本側に接収され、香港放送局として再開されました。

香港側資料では呼出符号JPHAが使用されたとされています。

放送再開時期については資料差があります。

香港側研究では1942年1月4日に放送再開とする記録があり、日本側の放送史資料では1942年2月を開局時期とするものがあります。

1月を軍政庁下での実際の放送再開、2月を香港占領地総督部への行政移行後の制度整備と考えれば両立する可能性がありますが、今回の調査では「正式開局日」を一日に断定できる一次資料までは確認できませんでした。

日本放送協会からの派遣要員

旧「南方放送史」資料では、香港も日本軍占領下の南方放送網の一部として扱われ、日本放送協会から放送要員が派遣されました。

ただし香港はフィリピンやビルマほど戦闘による放送施設の潰散が激しくなく、既存の英国側設備や現地スタッフを利用しながら放送が行われました。

南方占領地の放送自体が軍政下の事業であり、日本放送協会職員は軍属などの身分で派遣されるという構造でした。

JPHAでは何を放送していたのか

香港放送局では日本語だけを放送したわけではありません。

ニュース
日本語講座
ラジオ体操
軍楽
政策告知
広東音楽
粤曲・粤劇
レコード音楽

などが放送されました。

ニュースには日本語、中国語・広東語、英語など複数言語が使用された時期があります。

軍政下の情報・政策伝達機関である一方、香港住民が普段から聴く音楽や芸能番組も維持されました。

ここでも「宣伝か娯楽か」のどちらかではありません。

娯楽番組によって聴取者を維持しながら、その中にニュースや軍政情報を組み込むという構造を見る必要があります。

周波数と出力について

JPHAについては、後世の資料に周波数・出力の数値が複数掲載されています。

しかし現時点で、香港側公的資料、日本側公文書、複数の技術資料で一致する値を十分に確認できませんでした。

したがって今回は、確証のない数値を掲載しません。

ZBW・ZEK時代からJPHAへの送信設備の具体的な切り替え、使用した送信機、アンテナ、送信所所在地については、今後さらに調査する価値があります。

1945年 日本側管理の終了

1945年8月、日本の敗戦に伴い香港占領地総督部の機能は停止しました。

香港は英国側の管理へ戻り、放送も再び英国側へ引き継がれます。

JPHAが戦後どのような設備・人員の連続性を持って香港放送へ戻ったのかは、シリーズ⑦で扱います。

澳門編 〜日本側の直接管理を受けなかった放送〜

香港とはまったく異なる歴史

香港のすぐ西にある澳門ですが、戦時中の放送史は大きく異なります。

澳門はポルトガル統治下にあり、日本軍の直接占領を受けませんでした。

したがって「日本軍の澳門放送局」は存在しません。

それでも本シリーズで澳門を取り上げるのは、日本軍の占領・影響地域に囲まれた華南で、日本側が直接管理しなかったラジオ放送が存在したこと自体が重要な比較材料になるからです。

1933年 澳門最初のラジオ放送

澳門通信博物館によると、1933年、郵政総局内に澳門最初のラジオ放送局が設置されました。

呼出符号はCQN-MACAU、その後CRY-9-MACAU。

1日約2時間の放送を行っていました。

1938年 XX9-RÁDIO POLÍCIA

1938年には治安警察庁所属の警察放送局が開局します。

呼出符号はXX9-RÁDIO POLÍCIA。

蓮峰体育中心付近の警察施設から放送し、1941年まで運用されました。

1941年 澳門廣播會

1941年には澳門廣播會、Radio Clube de Macauが成立しました。

CRY-9-MACAUの設備と施設を継承し、

ポルトガル語
広東語
英語

による放送を開始しました。

香港がJPHAという日本軍政下の放送へ移行した同じ時期に、隣接する澳門ではポルトガル統治下の三言語放送が続いていたことになります。

澳門には「日本側管理終了日」がない

香港では、

GOW・ZBW・ZEK
→ 日本軍接収
→ JPHA
→ 1945年日本側管理終了

という歴史をたどりました。

澳門では、

ポルトガル統治下の放送
→ 澳門廣播會
→ 戦時中も放送継続

です。

したがって澳門については、1945年に「日本の放送局が閉局した」という出来事そのものがありません。

周辺に日本軍が存在し政治的・経済的影響を受けていたことと、放送局を日本側が直接管理したことは分けて考える必要があります。

中国大陸を結んだ「東亜放送」

東京の番組を短波で中国大陸へ

中国大陸の各放送局を地域別に追ってきましたが、それらは完全に孤立したネットワークではありませんでした。

1930年代後半から日本放送協会の番組を、

東京
→ 短波送信
→ 満洲・華北・華中などで受信
→ 現地放送局
→ 中波で再送信

する広域中継が形成されます。

2026年のNHK放送文化研究所の研究では、このネットワークが時期によって「東亜放送」「東亜中継放送」などと呼ばれ、朝鮮、台湾、満洲から華北・華中へ拡大していったことが確認されています。

「内地延長論」と「独自編成論」

しかし番組の内容をめぐっては考え方が一致していませんでした。

日本放送協会側には、日本国内向け番組をそのまま中継すればよいという「内地延長論」がありました。

一方、満洲、華北、華中など現地側の放送関係者には、現地の言語、文化、生活事情に合わせた独自番組が必要だという「独自編成論」がありました。

NHK放送文化研究所の新しい研究では、この両者の対立が戦時期を通じて完全には解消されず、実際の放送は日本本土からの番組と現地独自番組を組み合わせながら拡大していったことが示されています。

放送網を技術だけで統一することはできても、番組まで同一にすればよいわけではなかったということです。

中国大陸の放送を電波工学から見る

10Wから100kWまでの巨大な出力差

中国大陸の日本関係放送設備を並べると、送信出力の幅に驚かされます。

満洲地方局 10~50W
華北地方日本語局 50~100W
大連 1kW
奉天 1kW
漢口 1kW
南京 10kW
上海 10kW級
新京 100kW級
北京 100kW

最小と最大では約1万倍です。

しかし、出力の大きさが局の重要度そのものを意味するわけではありません。

50W局は都市や難聴地域を局地的に補完。

500W~1kW局は地域単位をカバー。

10kW局は主要都市と周辺地域。

100kW局は広域基幹放送。

短波10~20kW局は数百km、数千kmを越える中継・海外放送。

それぞれ役割が違います。

新京180kHzと北京640kHz

特に比較したいのが新京MTCYと北京XGAPです。

新京第2放送
180kHz・100kW設備
波長約1,667m

北京第1放送
640kHz・100kW
波長約469m

同じ100kWでも、電波としては別物です。

新京は長波の地表波伝搬を利用し、広大な中国東北部をカバーする思想。

北京は中波を大電力化し、華北をカバーする思想です。

送信機出力だけを比較するのではなく、

周波数
波長
アンテナ
地表導電率
対象地域
受信機

まで考えて初めて、その放送局の設計意図が見えてきます。

長波、中波、短波を組み合わせた放送圏

中国大陸では用途によって三つの波長帯が使い分けられていました。

長波は新京の広域地表波。

中波は都市・地域向け放送。

短波は日本本土との番組中継や海外向け放送。

さらに地域内では有線放送や街頭スピーカーも使用されています。

現在の通信網に置き換えれば、基幹回線、地域ネットワーク、末端配信網を別々の技術で構成していたようなものです。

放送局と軍用無線局は別物

中国大陸には、日本陸軍・海軍による膨大な無線通信施設も存在しました。

軍司令通信
航空無線
艦船通信
鉄道通信
気象通信
方向探知
情報通信

などです。

しかし、それらは不特定多数へ番組を送信するラジオ放送局とは目的も制度も違います。

大規模な鉄塔や送信機があったからといって、それを「ラジオ放送局」と呼ぶことはできません。

このシリーズでは、一般聴取者向けの放送、あるいは宣伝・対外放送として使用されたことを確認できない軍用通信施設は放送局一覧へ加えません。

1945年 日本側放送網の終わりは8月15日の一日ではない

1945年8月15日、日本の降伏が公表されました。

しかし中国大陸の日本関係放送局が同日一斉に閉局したわけではありません。

満洲では8月9日からすでにソ連軍が進攻しており、各局の接収時期は異なります。

大連では8月24日にソ連軍が放送局を占領。

哈爾浜では8月18日に接収。

華北・華中では降伏交渉と施設引き渡しが9月以降まで続きました。

中国戦区における日本軍の降伏文書調印は1945年9月9日に南京で行われています。

香港では日本側の総督機能が敗戦とともに停止し、英国側へ移管されました。

澳門にはもともと日本側の放送管理がありません。

したがってこのシリーズでは「1945年8月15日=すべての放送局の廃止日」とはしません。

各地域で日本側の実際の管理が終了した時点までを対象にします。

中国編をまとめる

日本が関わった中国大陸のラジオ放送史は、朝鮮編や台湾編よりはるかに複雑です。

朝鮮には朝鮮放送協会。

台湾には台湾放送協会。

比較的明確な一つの事業体を中心として放送史を追うことができます。

中国大陸ではそうはいきません。

関東庁逓信局。

関東軍特殊通信部。

満洲電信電話株式会社。

北支那方面軍。

日本放送協会派遣要員。

華北広播協会。

軍の報道放送組織。

中国放送協会。

台湾放送協会。

第23軍軍政庁。

香港占領地総督部。

異なる組織が異なる時期に異なる地域の放送へ関わりました。

技術面でも、

JQAK大連の1kW。

MTCY新京の180kHz・100kW級長波。

XGAP北京の640kHz・100kW中波。

南京・上海の10kW級局。

張家口、新京、上海の短波設備。

地方の10W、20W、50W送信機。

有線放送と街頭スピーカー。

これらが組み合わされています。

そこから見えるのは、単なる「戦時中の宣伝放送」の歴史ではありません。

ニュース、政策、戦況を伝える媒体であると同時に、音楽、演芸、旧劇、教育、生活情報を流す日常のメディアでもありました。

また日本側の放送だけが宣伝にラジオを利用していたわけではなく、中国国民政府、中国共産党、英国など各勢力も同じ電波空間で放送を行っていました。

ラジオという一つの技術を通して、政治、軍事、文化、娯楽、通信技術が重なっています。

そして1945年に日本側の組織が消滅しても、送信機、局舎、アンテナ、スタジオ、中継回線、人材はその場に残りました。

JQAK大連はどうなったのか。

MTCY新京の100kW設備は誰が使用したのか。

北京100kW局はどう引き継がれたのか。

南京、上海、漢口の中国放送協会の設備はどうなったのか。

JPHA香港はどのように英国側の放送へ戻ったのか。

それらについては、シリーズ⑦「戦後、日本が関わったラジオ局はどのような運命をたどったか」で改めて詳しく検証します。

資料を読む際の注意

中国大陸の戦前・戦中放送史は、資料によって局名、呼出符号、周波数、出力、開局日が異なる例が少なくありません。

理由として、試験放送開始日、正式開局日、管理組織変更日が別々に存在すること、周波数変更や増力が頻繁だったこと、設備定格と実際の運用出力が異なること、日本側資料と中国側資料の記録方法が違うことなどが挙げられます。

特にMTCY新京第2放送は100kW設備の存在が一次性の高い満洲電電資料を用いた研究で確認できる一方、1944年には50kWとする施設記録もあります。

香港JPHA、厦門、広州などについては、呼出符号や開局時期を確認できても、すべての技術諸元を一次資料で確定できません。

確認できない事項については、推測で数字を補わない方針としています。

参照資料

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