日本が関わったアジア・太平洋地域のラジオ放送史① 〜朝鮮編〜

JODK京城中央放送局と朝鮮放送協会〜1924年から1945年までの放送網と技術史〜

1920年代に登場したラジオは、短期間のうちに世界各地へ広がり、ニュース、音楽、演芸、教育、生活情報を家庭へ直接届ける新しいメディアとなりました。

当時、日本の統治下にあった朝鮮でも、日本本土とほぼ同じ時期からラジオ放送の実験が始まっています。

その中心となったのが、呼出符号「JODK」で知られる京城放送局、後の京城中央放送局です。

1927年2月16日に本放送を開始したJODKは、その後、社団法人朝鮮放送協会の中央局となりました。1933年には日本語を中心とする第1放送と朝鮮語を中心とする第2放送を別々の周波数で送る「二重放送」を開始。京城第2放送は後に50kWへ増力されました。さらに釜山、平壌、清津、咸興、裡里、大邱、光州などへ地方局が増設され、1945年までに朝鮮半島を縦断する大規模な中波放送網が形成されました。

しかし、この放送史を「日本が作った放送網」という一言だけで説明することも、「植民地統治の宣伝装置」という一面だけで説明することも適切ではありません。

朝鮮総督府による監督と情報統制の下に置かれていたことは史実です。一方で、ラジオは朝鮮語による音楽、演芸、放送劇、教育、スポーツ、生活情報などを広く伝え、新しい大衆文化を形成する媒体でもありました。近年の研究でも、政治的機能と文化的・娯楽的機能の双方を検証する必要性が指摘されています。

本稿では政治的な評価を先に置くのではなく、確認できる史料に沿って、朝鮮半島でラジオ放送がどのように始まり、誰が運営し、どのような設備と周波数を使い、どのような番組を放送し、どのように朝鮮半島全域へ拡大したのかを時系列でたどります。

対象期間は、日本側による放送管理が始まる1920年代から、1945年8月15日の終戦と、その後日本側の管理が実質的に終了するまでとします。戦後の韓国・北朝鮮における放送の展開は、シリーズ⑦で改めて取り上げます。

本稿で使用する地名と用語

本文では歴史的な放送制度を説明するため、原則として当時の日本側資料で使用された地名を用います。

京城は現在のソウル、平壌は現在のピョンヤン、裡里は現在の益山などにあたります。

また当時の資料には、日本語を「国語」、朝鮮語を「朝鮮語」と記載した例がありますが、本稿では混乱を避けるため「日本語」「朝鮮語」と表記します。

周波数については、当時一般的だった「kc」を使用します。1kcは現在の1kHzに相当します。

1924年 朝鮮総督府逓信局が放送実験を開始

朝鮮半島のラジオ放送史は、JODKの開局より前に始まっています。

1924年11月、朝鮮総督府逓信局は京城府光化門通にあった逓信局構内に臨時スタジオを設け、50W送信機を使用した試験放送を開始しました。

これは東京放送局JOAKが1925年3月22日に試験放送を開始するより前のことです。日本国内でもラジオに関する実験は行われていましたが、政府機関が主体となった放送実験としては早い時期の事例でした。

逓信局では受信技術の研究も進められ、京城の三越支店に受信機を設置して、大阪から送信された実験放送を一般に聞かせる公開受信も行われています。

つまり朝鮮半島のラジオ史は、1927年に突然JODKが開局したところから始まったのではありません。

1924年から送信・受信両面の実験が行われ、その経験を基礎として本格的な放送事業へ移行していきました。

1926年 社団法人京城放送局が成立

日本では1926年、東京、大阪、名古屋の放送局を統合して社団法人日本放送協会が成立しました。

朝鮮ではこれとは別に、1926年11月30日、社団法人京城放送局の設立が許可されました。

ここは朝鮮放送史を理解するうえで非常に重要です。

京城放送局は「日本放送協会京城放送局」ではありません。

朝鮮総督府逓信局の監督を受ける別法人として設立され、後に社団法人朝鮮放送協会となります。

日本放送協会とは技術、資金、番組中継などで密接に関係していましたが、組織としては別でした。東京大学BiblioPlazaで紹介されている近年の研究でも、京城放送局は朝鮮総督府逓信局の管轄下に置かれながら、聴取料を主要財源とする社団法人として運営されていたことが説明されています。

したがって関係を整理すると、

朝鮮総督府逓信局
↓ 監督・無線行政
社団法人京城放送局
↓ 1932年改組
社団法人朝鮮放送協会

という構造になります。

そこへ日本放送協会が番組交換、技術協力、資金面などで関わっていました。

1927年2月16日 JODK京城放送局が本放送開始

1927年2月16日、京城放送局は本放送を開始しました。

呼出符号はJODK、送信出力は1kWでした。

現在の韓国放送公社KBSも公式沿革で、1927年の「JODKラジオ放送開始」を韓国放送史の起点として掲載しています。

開局時周波数には史料差がある

注意したいのが開局時の周波数です。

韓国学中央研究院の「京城放送局」は690kHzと記載しています。一方、『ラジオ年鑑』『日本無線史』などを基礎資料とする日本ラジオ博物館では900kcとされています。

さらに当時の資料には別の周波数表記も見られます。

したがって本稿では、1927年2月16日の開局時周波数について一つの数値を断定しません。

その後、周波数の国際的な整理や設備更新によって何度も変更が行われているため、「1927年の値」と「1930年代以降の値」を区別して読む必要があります。

一方、昭和18年前後の設備については、第1放送710kc、第2放送970kcという値が比較的明確に確認できます。

JODKはなぜJO系の呼出符号だったのか

JODKという呼出符号は、放送史・無線史の視点から非常に興味深い存在です。

日本本土の初期放送局は、

東京放送局 JOAK
大阪放送局 JOBK
名古屋放送局 JOCK

でした。

そして京城に与えられたのがJODKです。

東京大学BiblioPlazaでは、京城放送局を東京、大阪、名古屋に次ぐ4番目に許可された放送局と説明しています。

ところが後に朝鮮半島へ設置された地方放送局は、

釜山 JBAK
平壌 JBBK
清津 JBCK
咸興 JBDK
裡里 JBFK
大邱 JBGK

というJB系列になりました。

結果として朝鮮放送協会の中央局だけがJODKというJO系呼出符号を持ち、地方局はJB系という独特の構成になりました。

呼出符号だけを並べても、朝鮮における放送制度が形成されていった時期の事情を見ることができます。

開局当初は日本語と朝鮮語の混合放送

JODK開局当初は、放送波が一つしかありませんでした。

このため日本語と朝鮮語の番組を時間で分け、一つの周波数から送信する「混合放送」が行われました。

韓国学中央研究院によれば、開局当初は日本語による経済市況、双方の言語による物価や天気予報、朝鮮語による民謡、童話などが編成されていました。

音楽、講演、演芸、生活情報なども放送され、後には放送劇やスポーツ中継などへ番組の幅が広がっていきます。

東京大学が紹介する『京城放送局(JODK)ラジオプログラム集成』の研究では、京城放送局の基本的な編成原則を「報道」「教養」「慰安」と整理しており、この基本構成は終戦期まで確認できます。

ラジオは政治的な情報伝達手段であると同時に、音楽や芸能を家庭へ届ける大衆メディアでもありました。

聴取者が増えなかった初期のJODK

しかし開局当初の経営は容易ではありませんでした。

1kWという出力では放送区域に限界があり、ラジオ受信機そのものも高価でした。

放送開始時の聴取料は月額2円。日本ラジオ博物館の整理では開局直後の聴取加入は約1,300件で、1928年でも約4,000件、1929年末になってようやく1万件を超えました。

さらに日本語番組の割合が大きかったことも、朝鮮人聴取者の拡大を難しくした一因と考えられています。

そこで放送区域の拡大とともに検討されたのが、日本語と朝鮮語を別々の電波へ分離する「二重放送」でした。

1929年 日本放送協会からの番組中継が本格化

1929年9月から、日本放送協会の番組を京城放送局で正式に中継する体制が始まりました。

1935年以降は中継網の整備が進み、1936年頃には日本放送協会の全国中継番組を第1放送で広く中継する体制となりました。

日本ラジオ博物館が整理した資料では、この時期の第1放送に占める朝鮮側独自番組は約30%だったとされています。

中継は一方向だけではありません。

朝鮮放送協会が制作した番組が日本本土へ送られたり、満洲方面との交換放送が行われたりした例もありました。

技術的に見ると、京城は単独の地方放送局ではなく、

日本本土

京城中央放送局

朝鮮半島の地方放送局

を結ぶ広域放送ネットワークの結節点へ発展していったことになります。

1932年 社団法人朝鮮放送協会へ

1932年4月、社団法人京城放送局は社団法人朝鮮放送協会へ改組されました。韓国学中央研究院は4月7日としています。

名称変更だけではありません。

朝鮮半島全域へ放送網を拡張することを前提とした組織へ変化した重要な転換点です。

京城は中央局となり、その後設置される地方局を統括する体制が整えられていきました。

貞洞演奏所と延禧放送所

二重放送に備え、京城では番組制作施設と送信施設を分離した本格的な放送設備が建設されました。

演奏所は京城府西大門区貞洞町。

大出力送信設備は京城市街地から離れた延禧地区に設けられました。

現在の放送設備に置き換えると、

演奏所・スタジオ

音声中継回線

延禧放送所

中波送信機

アンテナ

という構成です。

大電力送信設備を市街地のスタジオから離して設置する方式は、現在のAM放送局にも通じる基本構成です。

1933年4月26日 二重放送開始

1933年4月26日、京城放送局は日本語と朝鮮語を別々の電波で同時に送る二重放送を開始しました。

基本的な編成は、

第1放送 日本語中心
第2放送 朝鮮語中心

です。

二重放送開始当初は双方とも10kW級でした。

それまで朝鮮語番組は日本語番組との時間配分によって放送時間が制限されていましたが、独立した第2放送ができたことで、朝鮮語による独自編成が可能となりました。

東京大学が紹介する近年の研究では、第2放送について、統治政策上の必要性だけではなく、聴取者を増やすため朝鮮人の文化的・娯楽的要求を反映する必要もあったことが指摘されています。朝鮮語の音楽、芸能、教育、放送劇などが発展した背景には、こうした複数の事情が重なっていました。

1933年 放送監督体制も強化された

同じ1933年、朝鮮総督府逓信局には放送監督のための体制が設けられ、京城放送局内には放送内容を遮断できる設備も設置されたとする記録があります。

つまり二重放送によって番組の自由度と量が増える一方、放送行政側による監督体制も強化されていました。

この「番組の拡充」と「行政による監督」は、朝鮮放送史を考える際にどちらか一方だけを見るべきではありません。

京城第2放送は50kWへ

JODKの技術史で特に注目したいのが、第2放送の50kW化です。

『ラジオ年鑑 昭和18年版』『日本無線史 第十二巻』などを基に日本ラジオ博物館が整理した代表的な設備は次の通りです。

系統呼出符号周波数出力主な言語送信機
京城中央第1放送JODK1710kc10kW日本語中心東京電気無線 GRP71A
京城中央第2放送JODK2970kc50kW朝鮮語中心東京電気無線 GRP123C

第2放送は1933年の開始時には10kWでしたが、1937年4月から50kW送信機が使用された記録があります。

50kWは当時としては非常に大きな送信出力です。

しかも大出力化されたのが朝鮮語を主体とする第2放送だったことは、放送技術史上注目されます。

朝鮮半島は山地が多く、南北方向にも長いため、一つの中波送信所だけで全域を安定して覆うことは困難です。それでも50kW級送信所を中央に置くことで広域を確保し、後述する地方局で難聴地域を補完するというネットワーク構成が形成されていきました。

1935年 釜山から地方放送局網が始まる

1935年9月21日、朝鮮放送協会最初の本格的地方局として釜山放送局JBAKが開局しました。

続いて平壌、清津、咸興、裡里などへ地方局が設けられます。

京城の大出力送信だけに頼らず、各地域へ数十Wから数kW級の送信所を配置する方式です。

ここから朝鮮放送協会は「京城の一放送局」から、朝鮮半島全体を結ぶ放送ネットワークへ変化していきました。

1940年代へ拡大した朝鮮放送協会の局網

昭和18年前後の『ラジオ年鑑』などから比較的確実に確認できる主要局を整理すると次のようになります。周波数と出力は設備変更が繰り返されているため、原則として1940年代前半の代表値です。

放送局呼出符号第1放送第2放送出力
京城中央JODK710kc970kc10kW/50kW
釜山JBAK650kc1030kc250W/250W
平壌JBBK820kc1090kc500W/500W
清津JBCK850kc1100kc10kW/50W
咸興JBDK1050kc780kc250W/250W
裡里JBFK570kc1100kc500W/500W
大邱JBGK800kc1070kc500W/500W
光州JBHK780kc1040kc50W/50W
大田JBIK650kc880kc50W級
元山JBJK650~660kc900kc50W/50W
海州JBKK800kc1080kc50W/50W

咸興JBDKについては、780kcと1050kcの第1・第2放送の対応が逆になっている二次資料があります。本稿では『ラジオ年鑑 昭和18年版』『日本無線史』を基に整理した日本ラジオ博物館の表に従い、第1放送1050kc、第2放送780kcとしました。

元山も650kcと660kcの双方の記録があり、年代差などを含め今後さらに一次資料との照合が必要です。

1945年までに増えた小電力局

戦争末期まで地方局の増設は続きました。

確認できるものには、

新義州 JBLK
春川 JBMK
木浦 JBNK
馬山 JBOK
城津 JBPK
清州 JBQK
江陵 JBRK

などがあります。

代表的な設備を整理すると、

放送局呼出符号主な周波数出力の代表値
新義州JBLK600kc50W級
春川JBMK600kc50W級
木浦JBNK1280kc30W級
馬山JBOK600kc50W級
城津JBPK600kc50W級
清州JBQK600kc50W
江陵JBRK600kc小電力局

となります。日本ラジオ博物館の昭和18年前後の表では木浦30W、馬山・新義州・春川などを50W級としており、清州についても後世の地域局沿革では600kHz・50Wでの開始が確認できます。

さらに開城、長箭、瑞山などには補助放送所が設けられました。

大電力のJODK第2放送50kWと、地方の30W・50W送信機。

出力だけを比較すると1,000倍以上の差があります。

しかし目的が違います。

50kW局は広域基幹局。

30~50W局は特定都市や難聴地域を補完する局です。

現在の放送ネットワークにも通じる「大出力基幹局+小電力地域局」という考え方が、1940年代前半の朝鮮半島ですでに大規模に展開されていました。

送信機メーカーから見る朝鮮放送網

設備史として見ると、日本の無線機メーカーが朝鮮放送網へ深く関わっていたことも分かります。

京城中央第1放送では東京電気無線GRP71A。

第2放送50kWには東京電気無線GRP123C。

釜山にはGRP102D。

平壌にはGRP98B。

清津第1放送には日本電気の水晶制御式送信機が使用されたとする記録があります。

放送史だけではなく、戦前日本の大電力送信技術がどこまで海外地域へ展開されていたのかを知る資料でもあります。

ラジオ受信機も放送網の一部だった

放送局を増やすだけでは、ラジオは普及しません。

受信機を一般家庭へ普及させることも放送事業の重要な要素でした。

朝鮮では日本本土と同じ規格のラジオ受信機が使用され、七欧無線電気商会には「JODK 40型」と呼ばれる受信機も存在しました。1940年代には朝鮮放送協会指定の普及型受信機も供給され、松下無線製「普及型2号受信機」の実物が現在も日本ラジオ博物館に保存されています。

一方、ラジオの普及には大きな格差がありました。

日本ラジオ博物館が紹介する1939年3月の統計では、在留日本人への普及率が49%だったのに対し、朝鮮人では1.2%でした。

したがって「放送網が朝鮮半島全域へ広がった」ことと、「住民全体へラジオ受信機が均等に普及した」ことは区別する必要があります。

番組は何を放送していたのか

朝鮮放送協会の番組は、ニュースや政府発表だけではありません。

「報道」「教養」「慰安」を基本に、音楽、演芸、放送劇、講演、児童番組、生活情報、気象、物価情報、スポーツ中継など幅広い番組が制作されました。

特に第2放送では、朝鮮語による国楽、民謡、演芸、放送劇、語学、教養などが編成されました。

京城放送局の番組表を体系的に収録した『京城放送局(JODK)ラジオプログラム集成』からは、当時のラジオが政治的情報だけでなく、大衆文化を形成する場でもあったことが確認できます。

こうした点からも、「戦時宣伝だけを放送していた」と理解するのは正確ではありません。

一方で、放送が朝鮮総督府の監督下に置かれ、政治・社会情勢の変化とともに統制が強まっていったことも同時に確認する必要があります。

1937年以降 情報統制と戦時放送

1937年の日中戦争開始以降、放送を取り巻く環境は大きく変化しました。

同年7月、朝鮮総督府には「情報及び宣伝啓発に関する重要事項」を扱う朝鮮中央情報委員会が設置されました。

アジア歴史資料センターによれば、この委員会は新聞、ラジオ、映画、写真、紙芝居、防空など幅広い情報・宣伝分野を対象としていました。委員長は朝鮮総督府政務総監が務め、1941年11月に総督官房情報課が設置されると、情報課長が幹事長となりました。

戦争が長期化すると、第1放送だけでなく第2放送にも戦況報道、政策説明、戦時動員、日本語教育などが増えていきます。

ただし、ここで東南アジアの占領地放送との違いを明確にしておく必要があります。

朝鮮放送協会の放送局を、日本陸軍や日本海軍の特定部隊が直接運営していたことを示す資料は、今回確認した主要史料からは確認できませんでした。

運営主体はあくまで社団法人朝鮮放送協会であり、放送行政上の監督主体は朝鮮総督府逓信局でした。戦時期には朝鮮総督府の情報機構や日本中央政府の戦時放送政策の影響が強まりました。

したがって、

「軍直営放送局」

と、

「戦時体制下で政府・総督府の統制を受けた朝鮮放送協会」

は区別して考える必要があります。

これは後の東南アジア編で取り上げる、日本軍政機関が接収・運営した放送局との大きな違いです。

朝鮮半島から日本や満洲へも番組を送った

朝鮮放送協会のネットワークは、朝鮮半島だけで閉じていたわけではありません。

日本放送協会から番組を受ける一方、朝鮮側で制作した番組を日本本土へ送る「出中継」も行われました。また満洲方面との番組交換も確認されています。

さらに戦時期には、大陸方向へ電波が届く地理的条件を利用して、中国語やロシア語による放送も行われたとする記録があります。

日本本土、朝鮮、満洲、中国大陸は、それぞれ独立した放送史を持ちながら、放送中継や通信回線によって相互に接続されていました。

この広域的なネットワークという視点は、本シリーズ全体を通して重要になります。

海外短波放送を受信した「短波放送密聴事件」

戦時期の朝鮮放送史で欠かすことのできない出来事が、短波放送密聴事件です。

韓国学中央研究院によれば、朝鮮放送協会の技術者らが、業務上使用できる短波受信設備などを通じ、中国重慶方面やアメリカから送られる海外放送を受信し、そこから得た戦況情報が人々の間へ伝わりました。

1942年末以降、関係者の検挙が相次ぎます。

京城放送局だけで約40人、地方局を含めると150人近い朝鮮人放送関係者が検挙され、放送関係者以外を含めると約300人が事件に関係したと推計されています。75人が有罪判決を受けたとされています。

無線技術史の視点で見ると象徴的な事件です。

国内の放送内容を統制することはできても、短波は国境を越えて到来します。

電離層反射を利用して数千km先まで届く短波の性質そのものが、情報統制と衝突した事例でもありました。

1945年8月15日 JODKが伝えた終戦

1945年8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔書、いわゆる玉音放送は朝鮮でも放送されました。

しかし、この日をもって朝鮮半島の全放送局が一斉に停止したわけではありません。

設備はそのまま存在し、放送業務も政治・行政上の引き継ぎが行われるまで継続しました。

朝鮮半島北部ではソ連軍の進駐が進み、南部では米軍が進駐します。

京城中央放送局について、日本ラジオ博物館や韓国学中央研究院の韓国放送公社に関する資料は1945年9月9日に米軍政側へ接収されたとしています。一方、韓国学中央研究院の「京城放送局」の項目には9月15日との記載もあります。

この差は、「軍による接収」「行政上の移管」「放送機関としての改編」のどの時点を指すかによる可能性があります。

したがって本稿では、

「1945年9月、京城中央放送局の日本側管理が終了した」

と整理します。

これをもって、1924年の朝鮮総督府逓信局による実験から始まり、JODK、朝鮮放送協会、全国放送網へと発展した日本統治期の朝鮮ラジオ放送史は幕を閉じました。

その後、これらの放送設備が南北それぞれでどのような運命をたどったのかについては、シリーズ⑦で詳しく取り上げます。

朝鮮放送史を技術史として見る

朝鮮半島の放送史を技術面から整理すると、その発展速度には驚かされます。

1924年の50W実験局。

1927年のJODK・1kW放送。

1933年の10kW二重放送。

1937年の第2放送50kW。

そして釜山、平壌、清津、咸興、裡里、大邱などへ広がる地方放送網。

さらに1940年代には30W、50W級の小電力局や補助放送所を配置して難聴地域を埋めていきました。

これを送信出力だけで見ると、

京城第2放送 50kW
清津第1放送 10kW
京城第1放送 10kW
平壌 500W
裡里 500W
大邱 500W
釜山 250W
咸興 250W
地方小電力局 30~50W

という階層構造が見えてきます。

一つの大電力送信所だけで朝鮮半島全域を覆うのではなく、

中央大電力局

地域中出力局

地方小電力局

を組み合わせる設計です。

さらに第1放送と第2放送を別周波数で同時に送り、日本本土や満洲とも番組を交換する。

1930年代から1940年代前半の設備として見ると、相当に大規模な放送システムでした。

JODKの50kW第2放送が示すもの

無線技術の視点で特に注目したいのは、やはり京城第2放送です。

970kc、50kW。

現在の中波放送として見ても決して小さな出力ではありません。

しかも主な編成は朝鮮語でした。

これを単純に「朝鮮語放送が優遇されていた」と評価するのも、「統治政策のためだけだった」と結論付けるのも適切ではありません。

聴取者を増やし放送事業を成立させる必要、朝鮮語による娯楽や文化番組への需要、朝鮮総督府の政策、情報伝達の必要性など、複数の要因が重なった結果として見るべきでしょう。東京大学の研究紹介でも、植民地統治の機能を認めながら、ラジオが文化・娯楽・教養を伝え、新たな文化形成にも関わったことを同時に評価する必要性が示されています。

この視点は、本シリーズで台湾、満洲、中国大陸、東南アジアなどを取り上げる際にも共通する重要な姿勢になります。

JODKから始まった18年間

1927年2月16日のJODK本放送開始から、1945年まで約18年。

その間に朝鮮半島のラジオは、一局・一周波数・1kWの放送から、二重放送、大電力送信、地方放送局、全国中継網へと発展しました。

東京電気無線や日本電気の送信機。

貞洞の演奏所。

延禧の大電力放送所。

JODKからJBAK、JBBK、JBCKへ連なる呼出符号。

日本語と朝鮮語による二重放送。

日本本土や満洲との番組交換。

そして地方に配置された数十W級の小電力局。

こうした設備を一つずつ追っていくと、朝鮮放送協会が単なる一放送局ではなく、当時としては相当に高度な放送ネットワークを形成していたことが分かります。

同時に、そのネットワークは朝鮮総督府の統治下で形成され、戦争が進むにつれて情報統制や戦時動員の役割を強く求められました。

しかし、そのマイクと送信機から流れていたものは、それだけではありません。

音楽があり、演芸があり、放送劇があり、スポーツがあり、天気予報があり、日々の生活情報がありました。

放送史を政治だけで見ることも、技術だけで見ることも、文化だけで見ることもできません。

JODKと朝鮮放送協会の歴史は、放送技術、通信網、言語、文化、統治、戦争、そしてラジオを聞いていた人々の生活が重なった歴史です。

だからこそ、現在から約100年前の放送設備を調べる価値があります。

1945年、日本側の管理が終わったあと、JODK、JBAK、JBBKをはじめとする送信所、局舎、スタジオ、技術者たちはどうなったのか。

その先の歴史については、本シリーズの最終回「戦後編」で改めてたどることにします。

資料を読む際の注意

朝鮮放送協会については、開局年月日、周波数、出力、局名変更時期などが資料によって異なる場合があります。

特に周波数は何度も変更されており、1927年の値、1933年の値、1943年の値を混在させてはいけません。

本稿では『ラジオ年鑑 昭和18年版』『日本無線史 第十二巻』を基礎とした技術資料、韓国学中央研究院、KBS、東京大学による研究紹介、アジア歴史資料センターなどを相互に照合しました。国立国会図書館では『ラジオ年鑑 昭和18年版』のデジタル資料も確認できます。

資料間で一致しない数値については無理に一つへ統一せず、その旨を明記しています。

今後、朝鮮総督府告示、朝鮮放送協会の各年度事業報告書、『ラヂオ年鑑』『ラジオ年鑑』各年版などをさらに突合できれば、各地方局の演奏所・送信所所在地、アンテナ形式、送信機更新履歴まで、より精密な一覧にすることが可能でしょう。

参照資料

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